序章:早朝の訃報
2020年、夏。
スマートフォンの画面が、まだ薄暗い寝室を青白く照らした。
LAの旧友からのメール。
そこには、40年もの間、
私が心のどこかで待ち続けていた答えが記されていた。
『お前がずっと探していた、
あの「いかしたオヤジ」を見つけたぞ。……だが、残念ながら、彼はもう墓地の中にいた』
「あ……」
声にならない溜息が漏れ、熱いものが頬を伝った。
早朝の静寂の中で、私は一人、震えていた。
果たせなかった約束。遅すぎた再会。
もし、時を戻せるのなら。もし、あの時この国に戻る決断をしていなければ。
こぼれ落ちる涙と共に、激しい後悔が押し寄せる。40年という時間は、あまりにも早く、残酷に過ぎ去っていた。
第一章:大国の拒絶と、安らぎの海
1982年 夏
若かった私は、アメリカという大国に恋をしていた。
フリーウェイ10号線から15号線へとレンタカーを走らせ、広大な景色の中に自分の居場所を探した。
ここで暮らしたい、ここで仕事を見つけたい。
だが、特別な技術も持たない東洋人の若者に、大国は微笑むことさえなかった。
「金髪でダイナマイトボディのアメリカン・ガールを捕まえれば?」
仲間内ではそんな冗談も飛ばしたが、不思議と結婚相手だけは、日本女性以外考えられなかった。
そんな意固地で、どこか中途半端な自分。
当時、付き合っていた彼女とも別れ、自棄(やけ)気味に取った一週間の休暇。
逃げ込むように辿り着いたハンティントン・ビーチは、少々古びていて、投げやりな私の心を静かに包み込んでくれた。
駐車場で、日本から持ち込んだボードを下ろす。当時主流だった鋭利なショートボードではなく、ロングとの中間のようなファンボード。自分でも「イマイチだ」と思っていたその板を眺めていると、一人の男が近づいてきた。
長く束ねた髪。無精髭。左耳のピアス。
ブッチのサングラスに隠された青い瞳。そして、左腕には場違いな「和文字」のタトゥー。
「いい板だね」
それが、ジプシー・シェイパー、デービッドとの出会いだった。
第二章:首筋の刻印
「kazu、一緒にどうだい?」
彼の誘いに乗り、海へ出た。
だが、ヘタクソな私はハンティントンの速いカレントに翻弄された。
波に巻かれ、あろうことか自分のボードが頭上から降ってきた。
右後首を直撃する激痛。
「おおおーーっ!」という叫び声。
血だらけの私を、彼は迷わずローカルの店へ担ぎ込んだ。
「大丈夫か、若造!」
いかしたローカルたちが笑顔で迎えてくれる中、私はただ「Thanks, Thanks」と繰り返すことしかできなかった。
その夜、デービッドは「ウチに来ないか?」と言った。
ガレージの奥には、レジンの匂いが漂う作業場。
彼は有名なメーカーの板を削りながらも、そこには一切自分の名前を入れなかった。
「名前なんていらない。最高の波に乗れれば、それでいいんだ」
理解しきれない英語で語りかけ、彼は何度も私に問いかけた。
「How about you, kazu?(お前はどうなんだ、カズ?)」
翌朝、彼はオンボロのブルーのシボレー・C-10に積んだ、巨大なロングボードを指差した。
「今日はこれを試してみてくれ!」
沖に出るだけでも大変だったが、一度波に乗れば、そこには魔法のような時間が流れていた。
板の上を踊るように歩くデービッド。私たちは、ただ笑顔で波と戯れた。
わずか二日間。だが、彼は間違いなく、私の人生で最も大事な友となった。
第三章:届かない約束
「必ずまた戻る」
そう言い残して帰国し、私はいつの間にかこの国で家族を持ち、30年の歳月を積み上げた。
ようやく再訪したハンティントン・ビーチ。
家族をナッツベリーファームに残し、一日だけ時間を貰って訪れたあの場所には、もう彼の姿はなかった。あの店も、あのガレージも、消えていた。
ただ、風の中で、どこからか聞こえた気がしたのだ。
「How about you, kazu?」と。
そして今日、届いた訃報。
あと30年が過ぎれば、私の命さえこの世にはないかもしれない。
届かない悲しさの中で、私は首筋の古傷をなぞる。
第四章:再び、その先へ
あのハンティントンでの再訪からさらに数年が過ぎ、私の体にもいよいよ年齢という波が押し寄せてきていた。
仕事は落ち着いたものの、首筋の古傷は寒暖差で疼き、波に乗る回数もめっきりと減ってしまっていた。
そんなある日、私は都内の古びたサーフショップに立ち寄った。目的は、古くなったワックスを買い換えるだけのつもりだった。
しかし、店の奥、ヴィンテージボードが並ぶ一角で、私の心臓は早鐘を打ち始めた。
そこに、一本のロングボードが立て掛けられていた。
それは、今の流行りとはかけ離れた、鈍重で、どこか無骨なクラシックスタイル。くすんだクリアにペイントされたその形。
間違いない。あの朝、デービッドが僕に差し出した、あの巨大な板だ。
私は震える手でボードに触れた。
長い年月、多くのサーファーの手を渡ってきたのだろう。デッキには無数のフットマークがあり、レールにはいくつものリペアの跡があった。
しかし、その根底にある「形」は、あの時のままだった。
「…これ、おいくらですか?」
私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。店主は私の様子を不審げに見ながらも、その板の歴史を語り始めた。
「これは珍しい代物ですよ。二十年ほど前、LAのシェイパーから直接譲り受けたという人から
最近 買い取ったんです。
メーカーのロゴも、サインも入っていない。でも、削りの技術は本物だ。いわゆる『ジプシー・シェイパー』の板ですね。
彼らは自分の名前なんて気にしない。ただ、海と、その波に乗る人間のことだけを考えて板を削る。この板には、そんな魂が宿っているような気がしてね」
店主の言葉が、私の心に深く沈み込んでいった。
私は、そのボードを買い、家に持ち帰った。そして、ガレージの隅に置かれた、埃を被ったショートボードの横に立て掛けた。
「kazu、また会えたな」
あの時の、ブッチのサングラスの奥にある青い瞳が、私を見つめているような気がした。
私は、もう一度、海へ向かう決意をした。首の傷は疼くかもしれない。体は動かないかもしれない。それでも、私はこの板と共に、あの日のハンティントンへ戻りたかった。
あの穏やかな波、あの速い底の流れ、あの巨大な板の上で感じた、あの笑顔。
「How about you, kazu ?」
今、私はその問いに、自信を持って答えられる気がする。
「I'm back, David. I'm finally back.」
そして、私は、この板を削ったシェイパーの魂と共に、新たな波を追いかけ続ける。あの日の青春を、もう一度、この手に取り戻すために。
終章:青春のドルフィンスルー
私の心は、今もあの日のデービッドとの思い出の中で、波をくぐり抜ける「ドルフィンスルー」の真っ只中にいるのかもしれない。
出口の見えない波の下で、ずっと、あの青い瞳を探している。
目標に迷い、目的を失いかけている若者たちよ。
効率や正解ばかりを探さないで欲しい。
もっと熱く、もっと無様に、青春という名の波を追いかけたら良い。
たとえその約束が果たせなくても、たとえその傷が一生消えなくても、全力で駆け抜けた記憶だけが、君たちの血肉になる。
「さよなら、デービッド。さよなら、ジプシー・シェイパー」
次のLAでは、まっ先に貴方の眠る場所へ向かうよ。
そして、あのオンボロのC-10の助手席に座っているような気持ちで、空を見上げて答えるんだ。
「僕の人生、悪くなかったよ。……How about you, David?」
潮風が、一瞬だけ、あのガレージの匂いを運んできたような気がした。
エピローグ:約束の場所へ
LAの旧友からのメールが届いてから、数ヶ月後。私は再び、ロサンゼルス行きの飛行機に乗っていた。
家族を伴わない、一人だけの旅。目的は、ただ一つ。デービッドに会いに、彼の眠る場所へ行くこと。
フリーウェイ10号線から15号線、そして405号線へと乗り継ぎ、ハンティントン・ビーチへと向かう。
レンタカーの窓から見える景色は、40前とはすっかり変わり、洗練された街並みが続いていた。
しかし、潮の香りは、あの頃と少しも変わっていなかった。
旧友に教えてもらった墓地は、ハンティントン・ビーチから少し内陸に入った、静かな丘の上にあった。
広大な敷地に、いくつもの墓石が並ぶ。私は、デービッドの名前が刻まれた墓石を探した。
「David Miller, Gypsy Shaper, 1947- 2012」
65歳…
そこには、彼の名前と、彼の生き様、そして彼が生きた証が、静かに刻まれていた。
墓石の横には、小さな、しかし、確かに、波をモチーフにした彫刻が施されていた。
「デービッド……」
私は、墓石の前に座り込み、彼に語りかけた。
40年年もの間、果たせなかった約束。
そして、彼との出会いが、私の人生をどれほど豊かにしてくれたか。
「How about you, David?(貴方は、どうなんだ、デービッド?)」
私は、彼の墓石に向かって、あの問いかけを投げかけた。
風が、優しく私の頬を撫でる。まるで、彼が「最高だったよ、カズ」と答えているような気がした。
私は、彼が削ってくれた、あの巨大なロングボードを持ってきていた。
そのボードを、墓石の横に立て掛けた。
「これ、貴方の板でしょう?また、一緒に波に乗りたいな」
私は、そのボードと共に、ハンティントン・ビーチへ向かった。
あの日と同じように、波に巻かれ、血だらけになることはなかったが、私は、彼が削ってくれた板の上で、確かに、彼の魂を感じた。
「How about you, kazu?」
波の上で、私は、彼に答えた。
「僕の人生、悪くなかったよ。貴方と出会えて、本当に良かった」
私は、この板を削ったシェイパーの魂と、かつて愛した女性の思い出と共に、新たな波を追いかけ続ける。
あの日の青春と、そして、失った愛を、もう一度、この手に取り戻すために。家族との生活も大切にしながら、私の心の中にある「ハンティントン・ビーチ」を、永遠に守り続けるために。
今年 僕は
彼の齢に追い付いた



