あの頃
ガキの頃
皆 背番号は
3 を欲しがった…



手に入らないと思っていた
例の号外が
友達から送られて来た今日

もう会えないのかと
悲しみは増して
多くを振り返ってみるが
もう忘れてしまったことばかり

ここ数日
長嶋さんから頂いたはずの
サイン色紙を探し回ると

そのいくつかが見つかり
それと同時に

高田
柴田
堀内… なんて
あの頃の方々のそれも姿を見せた



それらは
いつどこで頂いたのか
すでに記憶はなく

きっと
多摩川のグラウンドなのだろうと
決めてしまえば
そうかもね と
それ以上 考えなくて済む

いずれにせよ
ガキの頃のものだから
それなりに
かなりの汚れとシミだらけな色紙

その価値が分かるのは
きっと僕ら世代までかと
苦笑いしながら
姿勢を正してみる


その1枚を額装し

わずかの間だけでもと

ぱふの横に飾ってみれば

しばらくは忘れずに

手を合わすのだろう




小学生の時
野球選手になりたかったのは
確かで

学校から帰れば
グローブを持って
近くの公園へと集まり

暗くなるまで
草野球をしてたけれど

守れば
ゴロが怖くて取れず

打てば
トンチンカンな空振りばかり

その後に入った少年野球でも
こりゃ無理だな って
コーチは思ったはず

そんな頃
町の商工会で
ジャイアンツの選手を呼んでくれて
目の前には

末次
土井…
それから誰だっけ… な姿

長嶋さんが来るはずはなく
それでも
プロは目の前にあって

こりゃ
もしや? なんて
夢を見たこともある

下手なくせに
背番号だけは
絶対3番だと 数人で揉めて

殴り合いの喧嘩にまでなったけれど
コーチのひと声で
僕は諦めて
8番となり

それは
その後
さださんの曲の


🎵 高田の背番号も
  知らないくせに… 🎵 って
微笑むことが出来た



結局
野球を諦めるのは早く
観る側に徹すると
楽しみは倍増した

当時
まだ同居していた叔父もまた
野球少年で
そこそこ投げたピッチャーで

ダメな僕を見ては
キャチボールしようと
微笑んでくれた

その後
なかなか取れないと
嘆いていた引退のチケットを
どこからか
無理して手に入れて来たようで

行くぞ! って
あの日
学校をズル休みして
出掛けた

我が巨人軍は永久に不滅です!の
その場にいれた
生き証人



そうだ
あれからもう半世紀
その叔父も いない

今頃
叔父たち多くのファンは
あちら側で
黒山の人だかりとなり
出迎えているのだろう



今 目の前に
これまた
押入れから引っ張り出した
背番号3のユニフォームがある

そうだ
背番号は
3番でなくてはならないのだ

ひとつだけ
確実に言えることは
今の
大谷より
遥かに凄かった! ってこと…

近く

東京ドームへと出向き
記帳して来ようと思う