小さい頃、10才にならない頃の話。
父に連れられて百貨店の美術ギャラリーに行くと、もういつからそんな事を考えたのか忘れたけれど、目の前の茶碗なり絵なりを見て、どんなに考えても、これが良いのか、悪いのか、はっきり答えが出ない、そんなイライラから、考える事を放棄した。
けれど、そうすると1つ問題がある。
思考は止まらない。
ならば、と、1つのモノに立ち止まるのをやめた。
小林秀雄さん風に言うのなら、眼は疾走する、思考は追いつけない、と。
そうして見ると、微かに眼に引っかかる感じ、それは足の小指を角に当てた時のような不意の、けれども、痛みと言うにはあまりに、ほんの微かな気づきを感じる。
そうなって初めて足を止めて、モノと対話する。もう見てるんだか、見てないんだか分からないくらい漫然としてくる。
この時、最も重要な事は、安易に答えを出さない事。兎に角、本当にそうなのか?
問い続ける事。
勿論、殆どのものは手に入らない。
しかし、1時間でも、それだけそんな風に見てれば思い出せるくらいになる。
その記憶を元に何年でも自問自答した事もある。
だから、眼が定まるまでは、評価の定まったモノを見る必要がある。
例えば、京都近代美術館に入っている、清水六兵衛作の淡雪のような茶碗は、10才になるかならないか、初めて地元のギャラリーで見た時、当時でもとてもとても買える値段ではなかったが、手にとって、父が良いと言ってる意味が分からなく、ハッと気づいたのはもう大学も卒業して何年かした後の京都近代美術館での出来事。
モノの良し悪しはモノに習うのが本当で人に習うものではない、というのは人がなんと言おうと私の実感だ。
そうして20才を少し過ぎた頃、父が白洲正子さんの遊鬼を持ってきて、そろそろお前もこれを読めと言ってきた。
決して読み手に優しくはない文章だったから、なかなか一気に読めはしなかったが、しかし、自分のモノの見方は間違っていなかったと確認できたし、何度も込み上げるものを感じた。
字について、読まないという視点、というご提案はこうした事を元にしています。
資料的価値観からではなく、美術的価値観からのアプローチ。
当時の知識人、文化人と同じ眼を持って現代に見るという事。
日本の美を眼によって生きるという事。