仮にたった楽譜一小節を前にした時、私達はプロだから、アマチュアだから、と本当の意味で言えるか?
こんな簡単な問いにどう答えるか?
若しくはどう応えるか?
これは大きな意味を持つと思う。
書道の世界では、書道なんて言葉は嫌いだけれど、古典蹟や法帖を真似る事を臨書というが、一体、この臨書という訓練は何のためにするのだろうか?と疑問に思うことしきりである。
その疑義は臨書そのものではなく、臨書に臨む人間に対する疑義である。言葉では意臨だとか形臨だとか背臨だとか立派な言葉があるそうだが、では実際にどんなつもりでやっているのだろうか?
因みに上の画像の中に何本かわざとダメな線が混じっているのだけれど、それは本当に臨書をしている人なら直ぐに分かるもの。
というのも、あえて薄墨にして毛先の軌跡が分かるようにしてあるのだから。
結論から言えば、上記の言葉云々を抜きして、臨書と称して単なる形態模写に終始するのは労力と資源の無駄だと考えるし、その先がない事は明らかだ。
そして何故にそのような不毛な作業に陥るのかといえば、そもそも、手本とする法帖や金石文の拓本を超えるという決意がないからではないか、と思う。
好きだからやる。
それは良い。
しかし、何故好きなのか?何に惹かれるのか?そして、自分と何が違うのか?そうした問いに対する回答への希求が希薄なのではないかと思う。
先日、地元の書道具店に筆を買いに行った時、最近は、書き順を番号付きで解説してある法帖がよく売れますよ、と説明を受けたけれど、耳の遠い父は幸い聞こえてないが、私は愕然とした。
教える方も習う方も安直である事の証左であるからだ。
どういうつもりで店主がそんな説明を私達親子にしたか知らない。
ボケ気味のおじいちゃんとその趣味に付き合っている息子か孫かに見えたかもしれない。
しかし、少し筆の操作を父が店主にしたにも関わらず、無反応だった事を思えば、推して知るべし、であろう。
中学の時、私に、篆書など簡単だ、外国人に書いてあげると喜ばれるなどとほざいたどっかの教頭を思いだす。
最初に、父に篆書を習ったとき、父は、正座をして居住まいを正した。その線を中学生の私は知っている。
物事の価値とはなんぞや?
真似るとはなんぞや?
簡単とは…
篆書:情念
10×4.5㎝
臨書ではないので遊びがあります。