読まない視点。
見るに徹する。
この事がネックとなって、仮名を味わい尽くす事の邪魔をしている。
文字は意思伝達ツールであって確かに読めなくては意味がないが、しかし、読めたからといって字そのものの価値が変わる訳ではない。それならば、今や仮名など無価値であり、三蹟などゴミ屑だ。

しかし、そうではない、その理由は見て分からなければ口で説明しても分かるものではない。

落語のオチを説明されてどうするのか?
同じである。

人が心血注いで表現したものを見るに、安易で良いはずはないと思うがどうであろうか?

昔、まだ、アナログ放送であった時、NHK教育で、岩崎巴人さんの俳画の番組があって、当時、生徒さんの手本に困ったり自身の好奇心もあったりして書いていた事があった。

手本は簡単でも難しくてもいけなくて、いつも苦労している。
柳葉を掴んで飛び続けるカエルなら、手本一つも上に上にと苦心のしがいもあるものをと傍目に見ています。






父は小説を読む。
それもこれも全て字のためなのだけれど、その中で芝木好子が、小説の中で、登場人物にすごい事を言わせている、と言って話した話。

形も、色も、線なのだ。覚えておくといい

これは清澄が真紀に言った言葉だ。

芝木好子さんは小説を書くとき物凄く取材をされるそうだけれど、そういう凄さがたった一行にも満たない台詞に現れる。

それを読みとれるか否かは、臨書にも他の事にも通じる。そこが分からなければ、例えば、字の本質、何故、古典蹟は国の宝として残っているのか?それすら分かる筈がない。そして、それなのに何故古典蹟を勉強するのか?そこすら分からない事になる。


そして思う。
源氏物語を単なる恋愛小説だと言う人の気が知れない。
自分の無知蒙昧さを公言しているだけであるのに。
仮にたった楽譜一小節を前にした時、私達はプロだから、アマチュアだから、と本当の意味で言えるか?
こんな簡単な問いにどう答えるか?
若しくはどう応えるか?
これは大きな意味を持つと思う。

書道の世界では、書道なんて言葉は嫌いだけれど、古典蹟や法帖を真似る事を臨書というが、一体、この臨書という訓練は何のためにするのだろうか?と疑問に思うことしきりである。


その疑義は臨書そのものではなく、臨書に臨む人間に対する疑義である。言葉では意臨だとか形臨だとか背臨だとか立派な言葉があるそうだが、では実際にどんなつもりでやっているのだろうか?

因みに上の画像の中に何本かわざとダメな線が混じっているのだけれど、それは本当に臨書をしている人なら直ぐに分かるもの。
というのも、あえて薄墨にして毛先の軌跡が分かるようにしてあるのだから。


結論から言えば、上記の言葉云々を抜きして、臨書と称して単なる形態模写に終始するのは労力と資源の無駄だと考えるし、その先がない事は明らかだ。
そして何故にそのような不毛な作業に陥るのかといえば、そもそも、手本とする法帖や金石文の拓本を超えるという決意がないからではないか、と思う。

好きだからやる。

それは良い。

しかし、何故好きなのか?何に惹かれるのか?そして、自分と何が違うのか?そうした問いに対する回答への希求が希薄なのではないかと思う。


先日、地元の書道具店に筆を買いに行った時、最近は、書き順を番号付きで解説してある法帖がよく売れますよ、と説明を受けたけれど、耳の遠い父は幸い聞こえてないが、私は愕然とした。
教える方も習う方も安直である事の証左であるからだ。

どういうつもりで店主がそんな説明を私達親子にしたか知らない。
ボケ気味のおじいちゃんとその趣味に付き合っている息子か孫かに見えたかもしれない。

しかし、少し筆の操作を父が店主にしたにも関わらず、無反応だった事を思えば、推して知るべし、であろう。

中学の時、私に、篆書など簡単だ、外国人に書いてあげると喜ばれるなどとほざいたどっかの教頭を思いだす。

最初に、父に篆書を習ったとき、父は、正座をして居住まいを正した。その線を中学生の私は知っている。

物事の価値とはなんぞや?
真似るとはなんぞや?
簡単とは…


篆書:情念
10×4.5㎝

臨書ではないので遊びがあります。