6月8日・秋山庄太郎のポリシー | papirow(ぱぴろう)のブログ

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Something to remember today. 今日の日が流れて消え去ってしまう前に。

6月8日は、音楽家、シューマンが生まれた日(1810年)だが、写真家の秋山庄太郎の誕生日でもある。昭和を代表する写真家で、自分もその作品は雑誌や本でよく目にした。

秋山庄太郎は、1920年、東京の神田で生まれた。生まれて間もないころに家族は横浜へ
引っ越し、3歳のとき、関東大震災にあった。
震災後、東京へもどり、小中学校に通った。中学校のとき、近所に好きな女の子ができて、その子の顔をいつもながめていられるように写真を撮ろうと、はじめて秋葉原でカメラを買った。
ところがそれをすぐにぶつけて壊してしまい、ドイツ製のバルディというカメラに買い換えた。そのバルディをもって修学旅行へ行き、その際、奈良で撮った逆光に輝くすすきの写真の出来ばえに自分で感心し、それから写真がおもしろくなって、熱心に撮るようになった。
高校と大学時代には写真部に在籍し、耽美的な作風の写真を撮った。
23歳のとき、大学卒業に際して、初の写真集を自費出版することを決意。愛用野カメラをたたき売って費用を作り、150部を作った。1冊あたり7円50銭の費用をかけ、友人に1冊5円で売って、売り上げは200円。売り上げはふた晩で飲んで消えたという。
陸軍に召集され、中国大陸を転戦した後、25歳のとき、長野で敗戦を迎えた。
26歳のとき、東京の銀座に写真館を構えたが、飲みに来る客ばかりで、写真の客が来ないため、1年で閉鎖。近代映画社の写真部に就職して、会社員のカメラマンとなった。
同社に4年ほど勤めた後、退社。31歳でフリーとなり、さまざまな雑誌の表紙写真を担当し、個展を開き、写真集を出した。宇野千代が出していた雑誌「スタイル」でも仕事をしていた。俳優や作家、政治家、など、さまざまな人物ポートレイトのほか、ヌード、植物、風景、静物などを撮る職人的写真家として活躍。日本を代表する写真界の大御所だった。
2003年1月、脳梗塞で倒れ、搬送された東京都内の病院で没した。82歳だった。

原節子、高峰三枝子の若いころから、夏目雅子、早見優、南野陽子の時代まで網羅し、加賀まり子や大原麗子のセミヌードまで撮っている秋山は、岸信介、佐藤栄作の兄弟から、福田赳夫や中曾根康弘、あるいは、若いころの石原慎太郎、田中角栄と娘時代の田中真紀子の父子ツーショットまで撮った、戦後の生き証人みたいな写真家だった。そのキャリアの豊かさには恐れ入る。

自分は写真のよしあしはよくわからないのだけれど、秋山が撮った花や木々の写真には、わざとピントをずらして、ぼかしたものもたくさんあって、なるほどなあ、と思った。ピントがどうこうよりも、最終的な美しさが問題なのである。

「写真に撮るときは目で見たときより美しくならないといい写真にならない」(秋山庄太郎「花の写真を」『写真家 秋山庄太郎』学研パブリッシング)
大酒飲みだった秋山庄太郎は、写真のよさが、見る人にわかってもらえる、そういう美しさを追求した写真家だった。だから、秋山作品は難解な感じはしない。まだカメラという機械が高価で扱いが難しかった時代の草分け的職人だった。

秋山庄太郎の座右の銘は、釈宗演という禅僧のことばで、こういうものだった。
「独居如接客、接客如独居」(独り居ること客に接するが如く、客に接すること独り居るが如し)
そうありたいなあ、と思う。
(2014年6月8日)


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