5月16日・溝口健二の長まわし | papirow(ぱぴろう)のブログ

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5月16日は、ロックミュージシャン、ロバート・フリップが生まれた日(1946年)だが、世界的巨匠だった映画監督、溝口健二の誕生日でもある。
自分は溝口の「瀧の白糸」「雨月物語」「祇園囃子」などを観たことがある。

溝口健二は、1898年、東京の浅草で生まれた。父親は職人で大工だった。健二は3人きょうだいのまん中で、姉と弟がいた。健二が5歳のとき、日露戦争がはじまり、父親は戦争需要をあてこんで軍用の雨合羽を作りだしたが、戦争が終わり、あてがはずれて破産。家は競売に出され、姉は養女に出され芸妓になった。
健二は小学校のとき、岩手、盛岡の親戚に預けられて転向していった。
小学校を卒業後、彼は15歳で浴衣の図案屋に奉公に出た。
その後、姉からの援助を得て、洋画の学校に通ったり、新聞社の広告部で働いたり、演劇や映画びたりの日々をへて、映画俳優と知り合い、そのつてで22歳のとき、映画会社に助監督として入社。
24歳で監督に昇進し「愛に甦る日」で監督デビュー。以後「唐人お吉」「瀧の白糸」「武蔵野夫人」を発表。
54歳のとき、ヴェネツィア国際映画祭に出品した「西鶴一代女」で国際賞を受賞。
55歳のとき「雨月物語」で同映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞。
さらに56歳のとき、「山椒大夫」でも同サンマルコ銀獅子賞を受賞。と、ヴェネツィアで3年連続入賞という快挙を成し遂げた。
世界的巨匠となった溝口は「祇園囃子」「赤線地帯」などを発表した後、1956年8月、白血病のため、京都で没した。58歳だった。

溝口健二は撮影現場では暴君のように君臨し、スタッフや俳優たちに罵声を浴びせて威張っていたらしい。溝口作品によく出演した女優、田中絹代によれば、溝口は仕事場では大監督だったが、すべてを映画に注ぎ込む生き方をしたため、プライベートではユーモアに欠け、日常はおもしろくない人だったという。

溝口映画の特徴的な手法は長まわしで、カットの声をなかなかかけず、ずーっとカメラをまわしつづけて長いシーンを撮っていく。それで「演技は俳優の領分」だとして、俳優には演技上の助言はいっさいせず、演技者まかせにした。それで独特の雰囲気のある映像ができあがった。
クロード・ルルーシュ監督も、せりふを俳優まかせにして、遠く離れたところから望遠レンズを向けるという独特の撮り方をするけれど、それにも通じるかもしれない。
そういえば以前、ジャン=リュック・ゴダール監督が、ローリング・ストーンズによる「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景を撮った際、ゴダールはカット割りをほとんどせず、録音スタジオ内を舐めまわすようにずーっとカメラをまわし続けて、或る異様な雰囲気の映像を作っていた。
実際、ゴダールは、溝口の墓参りをしたほどの大の溝口ファンで、
「好きな映画監督を3人あげると?」という質問にこう答えたという。
「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」

名作と名高い「雨月物語」を観たのはずいぶん前のことだけれど、そのときの自分にとっては長いワンシーンが退屈で、むしろ「瀧の白糸」のほうが新鮮だった。そこに描かれた風俗のめずらしさもあって、随所でびっくりさせられた。自分はまだ溝口の芸術が理解できていないのかもしれない。
(2014年5月16日)


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