4月20日・犬養毅の再評価 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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4月20日は、画家ジョアン・ミロが生まれた日(1893年)だが、政治家、犬養毅(いぬかいつよし)の誕生日でもある。五・一五事件で殺された総理大臣である。

犬養毅は、安政2年(1855年)に、備中国(びっちゅうのくに、現在の岡山)で生まれた。父親は庄屋で、郡奉行を務めた土地の名士で、毅は次男だった。生まれたときの苗字は「犬飼」だったのを後に「犬養」に改めた。
毅は21歳のとき、上京して慶応義塾に入学。25歳で慶応を中退して新聞記者になり、後、統計院の書記官となった。そして27歳で、大隈重信が結成した立憲改進党に入党。
35歳のとき、第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、生涯を政治家として生きた。
犬養は、玄洋社代表の遠山満の盟友であり、中国要人とのつきあいも深く、とくに孫文とは親友であり、日本に亡命中の孫文、蒋介石、ラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあった。犬養は、アジアが団結してヨーロッパ列強に対抗していこうとする大アジア主義の人で、ガンジーやネルーなどと並ぶ、アジアを代表する国際派だった。
1930年のロンドン軍縮会議の後、翌1931年に日本軍部が暴走して満州事変を起こすと、時の若槻禮次郎内閣は総辞職した。これに代わって、総理大臣となったのが、当時の野党第1党、立憲政友会の総裁だった犬養毅だった。中国との個人的人脈のパイプをもつ犬養に、話し合いによって満州事変を解決することが政界長老たちから期待されたが、軍の増長を押し止めようとする犬養の行動は、軍部の怒りを買った。
1932年5月15日の夕方、武装した海軍の青年将校と陸軍の士官候補生たちが、犬養のいる首相官邸に警備を破って乱入した。犬養は言った。
「話せばわかる」
兵隊たちは言った。
「問答無用」
ピストルで撃たれ、血だらけになった犬養は、駆けつけた官邸の者に、
「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」
と言ったという。犬養はその夜、日付が変わる前に没した。77歳だった。

この五・一五事件の前日、映画の喜劇王、チャールズ・チャップリンが来日していて、事件当日は犬養首相と面会する予定だった。テロを起こした将校たちは「日本に退廃文化を流した元凶」としてチャップリンもいっしょに暗殺するつもりだったが、当日チャップリンが気が変わって急きょ相撲観戦に出かけ、事件に巻き込まれずにすんだ。犬養の葬儀には、チャップリンから弔電が寄せられた。

国際的な難民支援活動を展開したエッセイストの犬養道子は毅の孫、国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子は曾孫にあたる。

時の総理大臣が殺されたというのに、五・一五事件を起こしたテロリストたちはひとりも死刑になっていない。みんな軽い刑を受けて釈放された後、満州へ行き、侵略事業に携わっている。当時の軍部の強硬な態度と、民族主義的な風潮の強かった世論に押されたものだろうけれど、これはまったく驚くべきことだと思う。

最近の日本では右傾化、排他主義傾向が進んでいる。2020年の東京オリンピックのころには、五・一五事件のようなテロ事件が起きるのではないかと、自分は危惧している。
現在、中国人の米国留学生が23万人くらいで、日本からの米国留学生は2万人もいないという。どんどん内向きになっていて、海外に友人がすくなくなり、世界が見えなくなっている日本人は、いまこそ犬養毅を思いだすべきときだ、そういう気がする。
(2014年4月20日)



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