2月26日・岡本太郎「だめなほうに賭ける」 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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2月26日は、サザンオールスターズの桑田佳祐が生まれた日(1956年)だが、芸術家、岡本太郎の誕生日でもある。
自分がはじめて岡本太郎の名を知ったのは、1970年の大阪万国博覧会のシンボル「太陽の塔」の作者としてだった。岡本作品のトレードマーク「顔」で太陽を表した。わかりやすく象徴で、かつ時代を痛烈に風刺したデザインに衝撃を受けた。

岡本太郎は1911年、現在の神奈川の川崎市で生まれた。父親は有名な漫画家、岡本一平で、母親は作家、岡本かの子だった。父親は家計をかえりみない放蕩者で、母親は家事や育児を放棄し、夫公認の若い恋人をいっしょに住まわせるという壮絶な家庭で太郎は育った。小さいころから絵を描くのが好きだった太郎は、学校で授業を受けること自体がいやで、学校を始終変わった後、中学を出るとすぐ美術学校に進んだ。
18歳のとき、家族といっしょに船で仏国パリへ渡った。パリの町を5日間、市内観光すると、両親は太郎をひとり残して、英国へ旅立った。ロンドンで開かれる軍縮会議を傍聴する取材のためで、以後10年間、太郎はひとりパリで暮らした。
当時、絵を描くことに疑問を抱き、絵が描けなくなっていた。絵が描けないのなら、せっかくやってきたパリの文化を吸収するべきだとして、彼はフランス語を身につけ、ソルボンヌ大学で哲学や民俗学を学んだ。そんなとき彼は、パリでバプロ・ピカソを発見した。
「ピカソの絵の前で泣くほど感激するのには、二ヵ月半の迷いの生活が必要だった。」(岡本太郎『青春ピカソ』新潮文庫)
岡本太郎はピカソに挑戦し、ピカソを乗り越えることを目標として、芸術に取り組みだし「傷ましき腕」を描いた。29歳のとき、ドイツ軍のパリ侵攻を避けて帰国。展覧会に入賞し、個展を開いた。第二次世界大戦中は召集されて兵役につき、中国戦線で戦った。敗戦後も、半年ほど中国で抑留生活を送った後、復員。
37歳のとき「夜の会」を結成し、前衛芸術について論じ、挑発的な発言をした。
59歳のとき、大阪万博のシンボル・タワーとして「太陽の塔」を製作。芸術作品制作のかたわら、本を書き、テレビ番組や広告にも出演し、流行語を作った。
「芸術は爆発だ」
「どんなものにも顔がある。グラスの底に顔があったっていいじゃないか」
岡本は、縄文式土器の美術性を高く評価し、古代土器に対する日本人の見方を一変させ、するどい文明批評で日本文化に潜む欺瞞をあばいた。1996年1月、パーキンソン病による急性呼吸不全のため、東京の入院先で没した。84歳だった。

かつて岡本太郎はメキシコの古代美術に触れ、こう激賞した。
「けしからん。何百年も前にわたしのマネをしているとは!」

自分は岡本太郎のことばには、いく度も励まされ、救われ、勇気づけられてきた。

「自分はだめな人間なんだとか、こうやったらきっとだめになるだろう、それならそのマイナスの方に賭けてみるんだ。」(岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春文庫)

「貧しいということは、苦しいかもしれないが、逆にその苦しいことが素晴らしい。だから一般には苦しい生き方をしていると、自分をみじめに思ってしまうが、これは大きなまちがいだ。」(同前)

岡本太郎は、ほんとうことを言ってくれる人だった。現代こそ彼の発言が望まれる時代だが、彼はもういない。生きている自分たちが、ほんとうのことを言わなくては。
(2014年2月26日)


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