10月26日は、フランス革命の政治家、ジョルジュ・ダントンが生まれた日(1759年)だが、作家、織田作之助の誕生日でもある。『夫婦善哉』を書いた人である。
自分は若いころ『六白金星』『勝負師』など「オダサク」の書いたものをすこし読み、とても感心した。名人芸で、筆のすべり具合が絶品だと思った。
織田作之助は、1913年、大阪で生まれた。作之助は5人きょうだいの唯一の男の子で、姉が三人、妹が一人いた。生家は魚屋を営んでいたが、作之助が4歳のころには、店舗を失い、一家は長屋暮らしとなり、父親は銭湯の前に屋台の魚屋を出していたという。
作之助は成績優秀で、第三高等学校(現在の京大教養部)に入学した。貧困家庭の彼の学費は、嫁にいった長姉夫婦が負担してくれた。
20歳のとき、織田は三高の卒業試験の最中に喀血して倒れた。結核を発症したのである。療養後に復学したが、急激に勉学への興味を失い、結局中退して卒業しなかった。
22歳のころ、カフェのウェイトレスと同棲をはじめ、女の収入に頼って暮らしながら、小説を書きだした。スタンダール、西鶴に影響を受けた作之助は、25歳のころから同人誌に小説を発表し、同棲相手と結婚。このころ同人誌に発表した『俗臭』が芥川賞候補となり、注目を集めだし、26歳で発表した『夫婦善哉』で認められ、作家生活に入った。
織田は大阪に縁のある小説を多く書き、無頼派の作家「オダサク」として活躍したが、33歳のときに大量喀血し、1947年1月、結核のため、入院先の東京の病院で没した。33歳だった。
織田作之助というと、太宰治とともに「小説の神様」志賀直哉に嫌われたので有名で、二人とも「神様」に反発し、志賀直哉批判の文章を書いている。
「志賀直哉とその亜流その他の身辺小説家は一時は『離れて強く人間に即(つ)く』やうな作品を作つたかも知れないが、その後の彼等の作品がますます人間から離れて行つたのは、もはや否定しがたい事実ではあるまいか。彼等は人間を描いてゐるといふかも知れないが、結局自分を描いてゐるだけで、しかも、自分を描いても自分の可能性は描かず、身辺だけを描いてゐるだけだ。」(織田作之助「心境小説的私小説を駁す」「文芸 臨時増刊号」1956年4月)
自分は、志賀直哉も太宰治も織田作之助も、みんな好きなので、こういう対立を見ると、なんとも言えない気持ちになる。それぞれの言うことはすべてもっともだとわかるし、それぞれの好悪の感情もよくわかるので、アンビバレントに陥り、困ってしまうのである。
織田作之助が書いたものは平易で、しかも、どれもそのときどきの書き手の気持ちがまっすぐに述べられていて、とても読みやすい。また、その時代の庶民の視線で書かれていて、その時代の世情、風俗のひじょうにわかりやすい記録となっている。「小説」がもともと「正史」に対する「稗史」であるなら、織田作之助の小説は、小説道のまさに王道を行った作品だと思う。
それにしても、織田作之助は一代の文章家だった。『夫婦善哉』のあの文章の運びは、彼独特のもので、絶品、名人芸だと思う。もっと長生きして、あの文章スタイルで、彼が賞賛する「アラビアンナイト」や「デカメロン」のような大伽藍を築き上げてほしかった。早世が惜しまれる才筆だった。
(2013年10月26日)
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