8月20日・「詩人」高杉晋作 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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8月20日は、英国のホラー小説家、ラヴクラフトが生まれた日(1890年)だが、幕末の風雲児、高杉晋作の誕生日でもある。坂本龍馬、西郷隆盛などと並んで、もっとも人気の高い幕末の英雄である。

高杉晋作は、天保10年(1839年)の8月20日に、現在の山口県の萩で生まれた。父親は長州藩士で、晋作は長男だった。
18歳のとき、吉田松陰が主宰する松下村塾に入った。師の松陰は、ただちに高杉の才能を見抜き、彼を発奮させようとあの手この手を使ったという。
19歳のとき、高杉は江戸へ留学した。すると、師の松陰が幕府に捕縛され、江戸に連れられてこられ、処刑されてしまう。高杉が受けたショックは計り知れない。
22歳のとき、幕府の使節といっしょに中国の上海を旅した。そして、西欧諸国の帝国主義に浸食された中国の惨状を見てきた。これが高杉に強い印象を残した。
その後、長州藩は高杉らの運動により、外国人排撃の方向へ動いた。そして1863年、高杉が24歳のときに、長州藩は関門海峡を封鎖し、海峡にいる外国船へ砲撃を加えた。これは、米仏の猛反撃を招いた。このときに、高杉が作ったのが「奇兵隊」で、これは武士、農民、町人で構成された、身分制度にとらわれない部隊だった。
翌1864年には、英仏米蘭の四カ国の連合艦隊が長州の下関を攻撃し、砲台が占領された。この戦後処理にあたり、高杉は藩の命を受けて講和会議に出席し、列強との交渉にあたった。このとき、欧米列強が突きつけてきた要求のなかに、関門海峡に浮かぶ彦島(またの名を巌流島)の期限付き租借があった。この要求を見た高杉の頭には、おそらく上海で見てきた租借地、植民地の実情がよみがえったろう。無論、高杉は要求を拒絶した。
一方、この下関戦争と同時期に、京都であった政変により、長州藩は、薩摩藩を主力とする軍隊によって京都から追い払われ、朝廷の敵ということにされていた。
西国諸藩の軍隊を結集した幕府連合軍の長州への攻撃が近づくなか、長州藩内では、江戸幕府にわびを入れようという俗論派が台頭してきた。藩内の、幕府との対決を主張する正義派がつぎつぎと処分された。高杉もいったん福岡に逃げて身を隠すが、ふたたび長州へ舞いもどり、奇兵隊を決起させ、クーデターを起こして、長州藩内の俗論派を一掃した。長州藩内は一気に倒幕でまとまった。
一方で、元土佐藩士の坂本龍馬の仲介により、薩摩藩の西郷隆盛と、長州藩の桂小五郎(またの名を木戸孝允)とのあいだで、薩長連合の密約が結ばれた。この両藩を中心として、時代は江戸幕府打倒へと一気に流れ出し、大政奉還、江戸幕府終了、と時代は動いていくことになる。
以前から肺結核を病んでいた高杉は、大政奉還を見届けることなく、慶応3年4月(1867年5月)に没した。28歳だった。

あたかも「日本のチェ・ゲバラ」で、高杉晋作ははげしい人生を生きた人だけれど、この生きざまは、師匠だった吉田松陰から聞いたこういうことばを踏まえてのものらしい。
「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。」
まったく、同感である。
高杉の辞世は、こうだった。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
革命家、高杉晋作は、詩人だった。
(2013年8月20日)



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