8月17日は、米アラモの砦で戦死したデイヴィー・クロケットが生まれた日(1786年)だが、ルーマニアの女流作家、ヘルタ・ミュラーの誕生日でもある。
自分はミュラーがノーベル文学賞を受賞して有名になった後も、彼女の作品を読んでいなかった。しかし、2012年に、中国の莫言(モーイエン)がノーベル文学賞を受賞したとき、批判的なコメントを発したので、どんな話を書く人なのかなと、急に興味をもちだして、短編をすこし読んだ。
ヘルタ・ミュラーは、1953年、ルーマニア西部のティミシュ県のニツキードルフで生まれた。ミュラー家は、ルーマニアのなかでドイツ語を話す少数派で、ヘルタの祖父は、農業と商売をして裕福だったが、ルーマニアに共産主義体制が敷かれると、その資産は没収された。第二次大戦中は、ルーマニアのドイツ人たちの多くがナチス親衛隊に動員されたが、ヘルタの父親も大戦中はナチスの親衛隊員だった。ヘルタの母親は戦争が終わった17歳のとき、ソビエト連邦の強制労働キャンプに連れ去られ、5年間働かされた。
大学でドイツ文学とルーマニア文学を専攻したヘルタは、23歳で大学を卒業し、工場の技術翻訳者として働きはじめた。が、秘密警察への協力を拒んだため、職場から追いだされることになった。ある日とつぜん彼女の机と椅子が片づけられ、仕事場への入室が禁じられ、彼女は秘密警察のスパイだといううわさが流されたという。
当時、チャウシェスク政権下のルーマニアでは、失業は犯罪だった。ミュラーは代用教員、幼稚園教師、ドイツ語の家庭教師をして食いつなぎながら詩や小説を書いた。
29歳のとき、ドイツ語で書いた最初の短編集『澱み』を出版。しかし、その内容は、検閲され、当局によっていちじるしく改ざんされたものだった。
31歳のとき、『澱み』の未検閲版が西ドイツで出版され、西側諸国で高い評価を受けた。彼女は著名人となり、これにより、ルーマニア当局は彼女に手を出しづらくなった。それでもミュラーに対する尋問、家宅侵入、脅迫は続き、彼女が31歳のとき、ついに出版活動を禁じられた。彼女は34歳のときに夫とともに西ドイツへ移住。大学で教鞭をとりながら、ルーマニアの管理された苛酷な状況を描いた作品を執筆しつづけた。長篇小説に『狙われたキツネ』『息のブランコ』などがある。
2009年、56歳のとき、ノーベル文学賞を受賞。
2012年、中国の莫言がノーベル文学賞を受賞した際には、59歳のヘルタ・ミュラーは、中国共産党政府による検閲を認めている莫言のような「体制派の作家」に、スウェーデン・アカデミーが賞を授与することを嘆いた。
短編集『澱み』に収録されているヘルタ・ミュラーの作品は、いずれも、きびしく管理された体制下の状況を描いているのだけれど、とても新鮮に感じられた。短編のせいか、表現がいちいち詩的でまるで「東欧の新感覚派」だった。たまに現代作家の外国作品を翻訳で読むのは、日本語の言語感覚についても刺激があっていいと思う。
ジョージ・オーウェルの『1984年』や、カフカの『審判』の世界が現実となった世界をよく観察して、それをまた架空の物語として描いている、というのがヘルタ・ミュラーの世界だと思う。
安部公房の『砂の女』を、東欧の人々が読むと、これは管理社会の状況を象徴的に描いたものだ、とただちに感得されたというのが、ミュラーを読んですこしわかった気がした。日本に生まれた不幸もあるけれど、やっぱり日本生まれででよかった。
(2013年8月17日)
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