7月22日は、ストレプトマイシンを発見したワクスマンが生まれた日(1888年)だが、「フォークの神様」岡林信康の誕生日でもある。
自分は30歳になったとき、
「もう30歳になったのだから、いちおう日本人として常識を身につけておかねば」
と考えて、岡林の2枚組のベスト盤を買い求めた。聴いて、衝撃を受けた。感動した。細野晴臣や大瀧詠一をバックにしたがえて歌い、泉谷しげるが師匠と慕ったのも、なるほどと素直にうなずけた。
岡林信康は、1946年、滋賀の近江八幡市で生まれた。父親は、牧師だった。
小さいころの信康は、教会で賛美歌を歌うまじめな少年だった。京都の大学に入り、神学を学んでいた彼は、東京の山谷で活動している牧師がいると聞いて訪ねていった山谷で、簡易宿泊所で寝起きし、日雇いの肉体労働をする生活をはじめた。大学はやめた。「受験生ブルース」を歌った高石友也のコンサートを聴いて、歌手になろうと決意。質屋でギターを買い、彼は曲を書き、歌い出した。
22歳のとき「山谷ブルース」でレコードデビュー。以後、「チューリップのアップリケ」「友よ」「私たちの望むものは」などの名曲を発表し、「フォークの神様」と呼ばれる存在となった。
フォークからロックへ移行しかけていた25歳のとき、彼はとつぜん音楽活動から身を引き、京都の山村に引きこもり農耕生活をはじめた。
27歳のころから、ふたたび音楽活動をはじめ、日本の民謡を生かした独特な和製ロック「エンヤトット」の演奏を中心にコンサート活動を続けている。
岡林が音楽業界から姿を消し、農作業をしていたころ、彼に、音楽業界へもどるよう勧める人はすくなくなかったらしい。
彼を師と仰ぐ泉谷しげるは、山奥の岡林の家まで押しかけた。そうして、3週間のあいだ田植えを手伝わされたという。
農作業のかたわら、岡林が急にやる気になって作った演歌のテープが縁で、彼は美空ひばりと知り合いになり、二人は意気投合した。美空ひばりは彼にこう説教したという。
「その才能を、どうして世のためひとのために使おうとしないのか」(岡林信康『バンザイなこっちゃ!』ゴマブックス)
自分は、「私たちの望むものは」をはじめて聴いたときの衝撃が忘れられない。時代を超えた名曲だと思う。
岡林信康が若いころに作った歌は、ひじょうに政治的、社会的で、切実に胸に迫ってくる。現代の日本には、こういう、聴く者の心に切りつけてきて、血が流れるような歌は、まず見当たらない。同じ歌だとは思われないくらいに、異なっている。逆に言えば、それくらい岡林という人は、突出した才能の持ち主だったということだろう。
そういう彼の音楽、ことばの天才を認めつつ、その後、農業をやったり、エンヤトットと日本独特のものを追い求めたりして、その都度、自分の心のおもむく方向に流れ自然体で生きる彼の姿にも、自分は共感をもつ者である。自由の人、天衣無縫の人だと思う。
現代の若い人たちが、「私たちの望むものは」「手紙」といった名曲を聴いて、どういうことを感じるのか、ひじょうに興味がある。これらの曲はYouTubeでも聴ける。いい時代になったものだ。
(2013年7月22日)
●ぱぴろうの電子書籍!
『出版の日本語幻想』
編集者が書いた日本語の本。編集現場、日本語の特質を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。
www.papirow.com