7/20・ナム・ジュン・パイクの日本語 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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Something to remember today. 今日の日が流れて消え去ってしまう前に。

7月20日は、人類初のエベレスト登頂者、ヒラリーが生まれた日(1919年)だが、ビデオ・アートのパイオニア、ナム・ジュン・パイクの誕生日でもある。
若いころの自分は、とにかく世界の最先端の情報をつねに欲していた。大事なのはロンドンで、ニューヨークで、あるいは地球のどこかの街で、いまある世界最先端の感性に接することだった。そういう自分のような新しいもの好きな種族のあいだでは、ナム・ジュン・パイクを知っていることは、ひとつのステイタスだった。
オノ・ヨーコ、ウォーホールではだめだが、「ナム・ジュン・パイク」の名を出すと、
「おやっ、通だね」
ということになる。そういう空気があったと思う。

ナム・ジュン・パイクは、1932年、韓国のソウル(当時は日本統治下)で生まれた。名前は漢字では「白南準」と表記する。ファミリーネームが「白(パイク)」である。繊維業で成功した裕福な一家は、パイクが17歳のとき、朝鮮戦争から逃れて日本へ越してきた。
東京大学に入学したパイクは、美学を専攻し、24歳のとき、無調音楽の作曲家、シェーンベルクをテーマに据えた卒業論文を書いて卒業した。
卒業後は、ドイツの大学に留学し音楽史を学んだ。このドイツ時代に、「4分33秒」という無音の曲を書いたジョン・ケージと知り合い、「ジョン・ケージへのオマージュ」というパフォーマンスをおこなった。
31歳のとき、ナム・ジュン・パイクの代名詞となるビデオ・アートを個展に出品。
32歳で、米国へ本拠地を移し、バリオリンやピアノの独奏を含む、さまざまなパフォーマンス、作品展示をおこなった。
以後、ドイツ、日本、韓国、イタリアなど、世界各地で展示、パフォーマンスをおこなった後、2006年1月、米国フロリダ州のマイアミで没した。73歳だった。

ナム・ジュン・パイクは、どんな場所へもビデオを持ち込んだ。
1980年代前半だったか、東京、上野の美術館で、ナム・ジュン・パイクの展覧会があって、見に行ったことがある。熱帯植物がいちめんに置かれた暗い庭の葉陰に点々とブラウン管のビデオモニターが置かれて刻々と移り変わる映像を映し出している「TVガーデン」、テーブルの上ににわとりの卵が置かれていて、それをビデオカメラが映していて、その映像が卵のとなりのモニターに映し出されている「三個の卵」、テレビ受像機が積み上げられた「ヴィラミッド」などの作品がよく記憶に残っている。まだ液晶画面がない時代だった。とくに「TVガーデン」は、不思議と心を引き寄せられる魅力的な作品だった。

スマートホンやタブレット端末が街中にあふれている現代では、ナム・ジュン・パイクの芸術は、どうということもなく感じられるかもしれない。けれど、じつは、ナム・ジュン・パイクが2010年代のイメージを先取りして表現し、時代がようやく追いつきつつある、とも言えるかもしれない。ただし、ナム・ジュン・パイクがいま生きていたら、液晶端末を使って、もっとすごい未来、大胆な人工的自然風景を見せてくれたにちがいなく、彼なら現代でどんなことをしでかしたろう、と想像するのは楽しい。

ナム・ジュン・パイクが書いた東大の卒業論文の実物を見たことがある。分厚い原稿用紙の束の表紙に「白南準」と署名があった。論文は日本語で書かれていて、彼の字は、明らかに自分より上手だった。未来を創造するセンスとともに、日本語の字の上手さも、うらやましいアーティストだった。
(2013年7月20日)



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