6/26・運命のパール・バック | papirow(ぱぴろう)のブログ

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Something to remember today. 今日の日が流れて消え去ってしまう前に。

6月26日は、ゴロ合わせで「露天風呂の日」。この日は長州の雄、木戸孝允こと桂小五郎が生まれた日(天保4年・1833年)だが、米国の女流作家、パール・バックの誕生日でもある。
中学生のころ、となりのクラスに、成績と体格と元気がいい女生徒がいた。自分は選ばれて、彼女といっしょに英語スピーチの学校代表として、何度かステージで英語会話のやりとりを演じた。そんな自分たちの仲を、同級生たちが冷やかした。それで、もともとクラスがべつだったこともあって、彼女とはほとんど話さなくなってしまったのは残念だった。あるとき、彼女がパール・バックの『大地』を読んでいるのを知って、007シリーズや木枯紋次郎を愛読していた自分は、はっとした。
「彼女は、立派な小説を読むのだなあ」
以来、パール・バックは、自分にとって、高いところにある特別な存在になった。

パール・サイデンストリッカー・バックは、1892年、米国ウェスト・ヴァージニア州ヒルスボロで生まれた。父親は長老派教会の宣教師で、それまで10年間、中国で伝道活動をしていて、10年ぶりの休暇をもらって帰郷していた、そのときにパールが誕生した。
パールが生後3カ月のころ、家族は中国へ引き返した。パールは中国語と英語を話すバイリンガルの環境で育った。彼女は周囲にいる中国人やインド人、日本人など、さまざまな人たちから、身の上話を聞くのを楽しみにしていた。
18歳のとき、いったん米国へもどり、大学卒業後、また中国へもどった。
25歳のとき、米国人の学者と結婚し、29歳のとき、女児を出産したが、この子が先天的に障害があって、後に米国の施設預けることになった。母親のパールはひとつには、この娘の養育費を捻出するためもあって、評論や小説に力を入れた。
35歳のとき、中国国民党軍が、彼女のいた南京に侵入してきて、彼女たち一家は、日本の長崎の雲仙に疎開した。
38歳のころ、長篇小説『大地』を発表。戦乱の近代中国を背景に、王一族の生きざまが描かれるこの作品はピュリッツァー賞を受賞。
1973年3月、米国ヴァージニア州ダンビーで、胆のう炎の手術後に没。80歳だった。

自分は最近「中国共産党」という米国製テレビ・ドキュメントのDVDを手に入れた。清朝の末期から、義和団事件、抗日戦争、日本敗戦後の中国の内戦までの歴史が語られるのだけれど、そのなかに歴史の証言者として、パール・バックが登場するので驚いた。彼女は子供のころに体験した思い出を語っていた。
西太后の命令で、中国国内にいる白人がいっせいに殺されたことがあって、とくに山東省ではひどく、女、子ども、宣教師や商人まで殺された。しかし、彼女がいた江蘇省では、総督が勇気をもって命令にそむき、白人を殺さなかった。それで命が助かった、と。
インタビュー当時、彼女はおそらく60代。器量の整った美しい婦人だった。

パール・バックは、名前からして「真珠」と親日的だが、戦後の貧しい時代の日本に生まれた、日米混血の浮浪児の救済にも尽力した。
パール・バックは、その著書『私の見た日本人』のなかで、日本の混浴の習慣について、だんだん減りつつあるとしながら、こう言っている。
「日本の男女が慎ましさや自意識に欠けるということではありません。むしろ裸体は恥ずかしいことでも、きまり悪いことでもなく、恥じらいや自意識の原因はほかにあります。不謹慎なことは男でも女でも裸体を見つめることです。身体の特定の部位を注視したり、裸を特別な目で見ることです」(小林政子訳『私の見た日本人』国書刊行会)
興味深い指摘だと思う。
もっと早く、中学のころに読んでいて、あのころ、となりのクラスの彼女と、パール・バックについて語り合っていたら、自分の人生もまたちがっていたかもしれない。
(2013年6月26日)



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