5月19日は、米国の黒人活動家、マルコム・X(1925年)、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)の書記長、ポル・ポト(1928年)が生まれた日だが、ベトナム独立を率いた革命家、ホー・チ・ミンの誕生日でもある。
自分は、子どものころはあまりよくわからなかったのだけれど、アメリカについて勉強するにつれて、ベトナム戦争がいかにひどいものだったかを知り、また、ベトナムの人たちのなめた苦難の歴史を知るようになった。加害の責任の一端は日本も負っている。
「ホーおじさん」こと、ホー・チ・ミンは、ちょろっとしたあごひげを生やした、やせた老人である。この華奢な小男が、世界一の強国、米国の侵略を撃退した英雄なのだから痛快だ。
ホー・チ・ミンは、当時フランス領インドシナと呼ばれていたベトナムのゲアン省の貧しい家庭に生まれた。父親は儒学者だった。小さいころから『論語』で中国語を勉強していたホーは、フランス語を学び、21歳のとき、外国船に料理人見習いとして乗りこんだ。
船員として世界をまわり、宗主国の首都パリで共産主義に目覚めたホーは、ソ連、中国をへて、51歳のとき、いまだ植民地だった母国にようやく帰国した。時は、第二次世界大戦、ナチス・ドイツが宗主国フランスを占領し、ベトナムへは日本軍が侵攻してきているころだった。この混乱を、ホーはベトナム独立の好機とみて、帰ってきたのである。
独立運動はなかなかはかどらなかったが、1945年、ホーが55歳のとき、日本が敗北し、第二次世界大戦が終わった。すると、ベトナムは一時、無政府状態となった。ホーはただちに国内をまとめ、ベトナム独立を宣言した。ところが、フランスをはじめとする連合国はこれを認めない。ホーたちは、ふたたび長い独立闘争に入った。
ベトナムは、植民地支配を復活させようとするフランスとの戦争状態に入り、この第一次インドシナ戦争のゲリラ戦をへて、1954年、ホーが64歳のとき、ジュネーヴ協定が結ばれ、フランスはついにベトナムから排除された。
しかし、それに代わって米国が名乗りをあげた。米国が南ベトナムに傀儡政権を立てて、ベトナム進出を目論んできた。これによって、ベトナムは南北に分断され、ホーの側は「北ベトナム」ということになった。米国が操る南ベトナム政府は、選挙もおこなわず、反対派を弾圧する独裁政権だった。
1960年、これに反対して、南ベトナム内には南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成され、政府軍との内戦がはじまった。政府軍側には、増派された米軍が味方して加わり、反政府側のベトコンを、ホー・チ・ミンの北ベトナムが後押しする、という構図だった。
1964年、米国は「トンキン湾事件」を自作自演し、これを口実にベトナムへ本格介入。ベトナム戦争は泥沼化し、1965年、ホーが75歳のとき、米軍はついに北ベトナムへの爆撃を開始し、戦線は南北ベトナム全土に拡大された。
世界最強の米軍は、B52爆撃機を飛ばし、ナパーム弾を落とし、枯葉剤をまき、と、核兵器以外のほとんどの兵器を投入して戦いながら、中国・ソ連の援助を受けた北ベトナム・ベトコン軍になかなか勝てなかった。
一方で、バートランド・ラッセルら各国の知識人たちからのはげしい国際的非難を米国は浴びつづけ、米国内でもベトナム戦争反対の運動が盛んになってきた。
米軍は、カンボジアなど周辺諸国まで爆撃を拡大した後、ついに撤退を開始した。そんな1969年9月、ベトナム国民の不屈の精神のシンボルだったホー・チ・ミンは心臓発作により没した。79歳だった。
1975年4月に、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、北ベトナム側が勝利し、ベトナム戦争は終わった。南北ベトナムは統一され、サイゴンは「ホーチミン市」となった。2013年の現在にいたるまで米国は、ベトナムへ与えた戦争被害を、いまだに謝罪していない。
ゲバラ、カストロと並び、ホー・チ・ミンは、世界一の軍事大国・合衆国に負けなかった英雄である。彼は日本の植民地主義とも戦い、苦労した人だが、同じアジア人として、日本人も誇っていいと思う。そういう意味では、日本人の立場というのはとても複雑である。
ホー・チ・ミンは、こう言ったそうだ。
「いいかい、嵐というのは、松や糸杉がいかに強く、安定しているかを見せる、いい機会なんだよ」
米国を相手にして、このゆったりとした構えはすごい。
(2013年5月19日)
●ぱぴろうの電子書籍!
『3月生まれについて』
マックイーン、ゴッホ、芥川龍之介、黒澤明など3月誕生の31人の人物論。人気ブログの元原稿版。3月生まれの秘密に迫る。
www.papirow.com