4月10日は、映画評論家の淀川長治が生まれた日(1909年)だが、米国の新聞王、ピュリツァーの誕生日でもある。「自由の女神」像の建立にあたって功績があり、「ピュリツァー賞」に名を残す人である。
ジョーゼフ・ピュリツァーは、1847年、ハンガリーのマコで生まれた。父親は穀物取引業を営むユダヤ人で、母親はオーストリア-ドイツ系だった。
ジョーゼフは南北戦争のとき米国へ渡り、戦争が終わってみると、ひょろりとした長身の、まだ18歳の、ドイツ語しかしゃべれない、ほとんど無一文の青年となってニューヨークを歩いていた。彼は、持っていたハンカチを売り、そのお金を旅費にしてセントルイスに向かった。セントルイスは、ドイツ人がたくさんいる街だからである。
セントルイスに着いたピュリツァーは、いろいろな職業に就いて働きながら、図書館で英語を猛勉強した。
20歳になるすこし前に、米国の国籍を取得した彼は、新聞社の記者となり、猛烈に働いた。午前10時から翌日の午前2時まで、1日16時間働いたという。
彼は新聞記者としては、政治や起業の腐敗を糾弾することに熱意を燃やし、しだいに彼の存在は人々に知られるところとなっていった。そんなとき、たまたま州議会の議員の辞職、選挙への出馬辞退が重なり、ピュリツァーは共和党の候補に指名され、当選した。新聞記者として籍をおいたまま、州の議員となったのは、22歳のときだった。
ピュリツァーは31歳のとき、赤字続きで倒産寸前だった地元紙セントルイス・ディスパッチを、競売で競り落とし、ついに自分の新聞をもつことになった。
ピュリツァーは、政治や行政の腐敗を徹底的に糾弾するキャンペーン主義を、自分の新聞に採用した。大儲けしていながら税金をほとんど払っていない金持ちの財務申告書を紙面にでかでかと載せたり、政治と起業の癒着、富くじのいんちき、独占企業を糾弾するなど、つぎつぎとキャンペーンを張り、あるいは、市民のプライベートな事件を暴露してセンセーショナルな見出しであおった。ピュリツァーは、護身用につねにピストルを持ち歩いていた。実際に殺し屋に遭遇して、危機一髪で難を逃れたこともあったという。そうして彼の新聞は部数を伸ばしていった。
36歳のとき、ニューヨークの、やはり赤字でつぶれかかっていたニューヨーク・ワールド紙を買い取った。ピュリツァーは、他紙がお高くとまった読みにくい文章で記事を書いているなかで、自分の新聞を読みやすい平易な文章の記事にし、富豪たちのあくどい富の蓄積のしかたとか、その派手な生活ぶりだとか、政治の腐敗ぶりをセンセーショナルに書き立てた。
記事にされた相手やライバル紙による、ピュリツァー個人、あるいは彼の新聞に対する中傷、攻撃も激しく、大統領に訴訟を起こされたこともあったが、彼は信念を押し通し、彼はニューヨーク・ワールド紙を全米で最大の部数を誇る新聞にまで押し上げた。
大金持ちとなった「新聞王」ピュリツァーは、1911年、サウスカロライナ州チャールストンの湾上に浮かんだ自分のヨットの船室で没した。64歳だった。
「新聞の鬼」という感じがする。若いころはもちろん、社主となってからも、ものすごい長時間働いていたらしい。
そして、批判や中傷に屈しなかった立派な人だと思う。ユダヤ人であることネタにした中傷もずいぶん受けたようだ。
それにしても、19歳のとき、将来への具体的な展望をまったくもっていなかった無一文の青年が、40歳のときには、目標をすべてやり遂げ、押しも押されぬ大富豪の実業家になっていた、というのは、驚きである。
すごい、と思う。人間というのは、20年もたてば、どんなすごい人になっているか、わからないのだ。
(2013年4月10日)
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