1月30日は、大恐慌時代の米国大統領FDRことフランクリン・ルーズヴェルトの誕生日(1882年)だが、米国の作家、リチャード・ブローティガンが生まれた日でもある。
「やさしさの作家」ブローティガンは、自分にとって、1960年代の若者文化を象徴する存在で、学生のころから愛読していた。
サンフランシスコのハッシュベリー地区の路上に、全米各地から若者たちが集まってたむろしていたヒッピー全盛のころ、若者たちの集会の席やコンサート会場で朗読されるのが、ブローティガンの詩や小説だった。
自分の専門は1960年代アメリカの文化史だったので、ブローティガンは自分の研究のテーマソングみたいなものだった。
世界的ベストセラー『アメリカの鱒釣り』のほか『ビッグ・サーの南軍将軍』『西瓜糖の日々』『芝生の復讐』『愛のゆくえ』などを自分は読み、それらの本はいまでももっている。
リチャード・ブローティガンは、1935年1月30日、米国ワシントン州タコマで生まれた。
父親は工場労働者で、母親はウェイトレスだったが、両親はリチャードが生まれる8カ月前に別れ、誕生したリチャードはべつの男と暮らす母親といっしょに暮らし、育った。
子どものころ、ブローティガンの家はとても貧しく、生活保護を受けていた。何日も食べ物なしですごしたこともあるという。
しかし、彼は大きくなった。ブローティガンの身長は193センチメートルあり、高校時代は、学校新聞の記者をしながら、バスケットボール部でも活躍した。
20歳のとき、ブローティガンは警察署の窓に石を投げこんで、現行犯逮捕された。これは、刑務所に入って食事にありつこうという魂胆からの犯行だったが、彼の目論見に反して、彼は25ドルの罰金を課された上、病院に入れらた。
精神科の医師は、偏執性の統合失調性と抑鬱症と診断を下し、ブローティガンは電気ショック療法を12回受けたという。
やがて退院したブローティガンは、いったんオレゴンの母親と、母親の再婚相手のもとで、いっしょに暮らした後、ひとり家をでてサンフランシスコに住み着いた。
サンフランシスコで、ミニコミ紙などに記事を書いていたブローティガンは、詩や小説を書きため、22歳のときに最初の詩集を出版した。そして、29歳のとき、小説『ビッグ・サーの南軍将軍』をだした。
32歳のとき、小説『アメリカの鱒釣り』を出版。この作品は全世界で400万部以上を売るベストセラーとなり、ブローティガンの名を一躍高らしめた。
以後、『バビロンを夢見て』『東京モンタナ急行』『ハンバーガー殺人事件』『不運な女』などの作品を発表した。
1984年9月、カリフォルニア州ボリナスで自殺。49歳だった。
1970年代の米国文学の風といえば、やはりカート・ヴォネガットとブローティガンである。
どちらもユーモアと洒落っ気と風刺精神に満ちた「新しい小説」を書く作家だったが、ヴォネガットのほうが、より厭世的、皮肉的であるのに対し、ブローティガンのほうが、より楽観的、感傷的だという気が、自分はする。
どちらも、読んでみると、村上春樹や高橋源一郎らに圧倒的な影響を与えた作家だとわかる。
自分は若いころ、ブローティガンの、軽やかな、やさしい感じのする文章が大好きで、この作者は、やっぱりやさしい、穏やかな人で、自然のなかで静かな生活を送っているのかなあ、などと想像していたのだけれど、じつは本人はアルコール依存と抑鬱症に苦しみ、自殺したいとしょっちゅう口にしていた人だったのだと、彼が死んだ後になって知った。
ブローティガンが拳銃自殺したというニュースを聞いたときは、驚いた。
これは、ひとり暮らししていた自宅で、44口径のマグナム銃で自分の頭を撃ち抜いたもので、遺体が発見されたのは、自殺してひと月以上たってからだった。
あの軽快で明朗なやさしさの文学は、ものすごい重たい気分のなかから生みだされたものだったのである。
そういえば、『愛のゆくえ』は自分のお気に入りの小説だけれど、あの原題は、The Abortinon (堕胎、人口中絶)だった。
ブローティガンは、2度結婚し、2度とも離婚していて、2度目の奥さんは日本人女性だった。
いずれの結婚生活も長くはつづかなかった。やはりブローティガンのアルコール依存と精神面が、障害になったようだ。
しかし、そういうとことがらを頭においた上で、ブローティガンの作品をあらためて読み返してみると、やっぱり、その文章はお洒落だし、気が利いているなあ、と感心してしまうのである。
(2013年1月30日)
著書
『コミュニティー 世界の共同生活体』
『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』
訳書、キャスリーン・キンケイド著
『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』