1/2・道元禅師の高さ | papirow(ぱぴろう)のブログ

papirow(ぱぴろう)のブログ

Something to remember today. 今日の日が流れて消え去ってしまう前に。

1月2日は、曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖、道元禅師(どうげんぜんじ)の誕生日である。
道元は正治2年1月2日、京都に生まれた。

父親は武家「源氏」の系統で、母親は貴族「藤原氏」の血をひくという、道元は名門の子息だった。
しかし、政変と戦争の繰り返される時世で、道元は、2歳のとき父親を亡くし、7歳で母親を亡くした。
6歳で『春秋左氏伝』を読んだというこの秀才は、孤児となって世の無常を感じ、12歳で出家する。
13歳のとき、比叡山延暦寺に入門して密教、仏教の勉学にはげみ、翌年、14歳で比叡山を降りた。
17歳で明全に師事。明全は、臨済宗(りんざいしゅう)の開祖である栄西の直弟子である(栄西はすでに死去していた)。
21歳のとき、明全に印可(悟りを開いたという禅宗の卒業証書)を受ける。
23歳のとき、明全とともに、中国(宋)へ出発する。
宋の国でいくつかの寺で修行した後、25歳で景徳寺の如浄禅師の門下に入る。
27歳で如浄から、印可を受け、日本へ帰国(いっしょにいった明全は景徳寺にて死去)。
以後、京都、建仁寺で、執筆活動しつつ、説法をつづけるが、以前世話になった比叡山から、今度は迫害され、30歳のとき、建仁寺をでる。
そうして、旧仏教勢力からの迫害を逃れて、人里離れた山なかに修行場を求め、福井の山奥に大仏寺を開いた。これが44歳のとき。
この大仏寺が、後に永平寺と改められた、曹洞宗の総本山である。
道元は、53歳で没している。

自分の実家は、静岡県磐田市にあって、菩提寺は曹洞宗で、したがって自分は小さいときから、葬式や年忌の都度、曹洞宗の儀式を見て、曹洞宗のお寺にお参りしてきた門徒である。
とはいえ、およそ熱心な門徒ではなかったし、いまでも、ない。
40歳をすぎまるまで曹洞宗とその開祖、道元について、まったく知らなかったし、座禅を組んだこともなかった。
いわば「なんちゃって曹洞宗門徒」だったわけである。

でも、40歳をすぎるくらいから、いろいろな思想、宗教について興味をもつようになり、キリスト教各派や、イスラム教、ヒンドゥー教、大乗と小乗仏教、密教、そして鎌倉仏教の各派についてすこしずつ勉強して、道元禅師の書物についてもだんだん親しむようになってきた。
そうやって知識を拾い集めてきた、まだまだ浅い見識でいうのだけれど、自分の思うには、日本の宗教界で、もっとも学識が高く、かつ、もっともきびしい思想をもっていたのは、空海(弘法大師)と、道元禅師だという気がする。
とくに鎌倉仏教の各宗派の開祖は、それぞれ個性的な思想を展開した人々で、法然、親鸞、一遍、日蓮などなど、それぞれおもしろい考え方だと思うし、それぞれ納得できる主張をもっていると思うけれど、なかでも、道元禅師のいうところが、いちばんきびしいと思う。
自分に対して、そして、みんなに対しても、きびしい。

『正法眼蔵』で、自分が感心したのは、たとえば、こういうことばである。
「生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときは、滅のほかにものなし」
これは、
「生から死に移り変わると考えるのは、まちがっている。生きているときは、はじめから終わりまで『生』あるばかりで、死んだときは、はじめから終わりまで『死』があるばかりである。『生』がくれば、ただ『生』に向かい、『死』がくれば、ただ『死』に向かうばかりなのである」
という意味で、このリアリスティックで冷徹な響きは、すばらしいと思う。

こういう難解をもって鳴る古典を前にすると、ほんとうに自分の無学さが悲しくなる。
また、毎日あわただしく時をすごしているが、果たしてそこに何か意味があったのか、と、問い詰められているようで、つらい。
なかなか、道元禅師のいうように、自分にきびしくは生きられない。
煩悩だらけの、救われない衆生のひとりなのだが、そんな自分は、ときどき、ふと、
「死んだほうがいいかな」
と思うときがある。それでも、こういう本があると、まだこれを読まないうちは、死ねないかな、と思い返したりする。
道元、その人の「精神性の高さ」が、800年の時を超えて、自分の胸に迫ってくるのである。
(2012年1月2日)




●おすすめの電子書籍!

『1月生まれについて』(ぱぴろう)
道元禅師、盛田昭夫、村上春樹、三島由紀夫、デヴィッド・ボウイ、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、深いオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。


www.papirow.com