12月19日は、孤高の作家、埴谷雄高(はにやゆたか)の誕生日(1909年)。本名は般若豊(はんにゃゆたか)で、戸籍上の誕生日は翌年の元旦になっているらしい。
明治以降の作家のうちでも、埴谷雄高ほど特殊な作家はいないという感じがする。
日清戦争の結果、台湾は日本に割譲されたが、埴谷はその日本占領下の台湾で生まれた。彼は『裂け目の発見──文学的自叙伝』のなかで台湾時代の記憶についてこう述べている。
「日本人は、その当時は十万ぐらいしかいなかったろうと思うんですが、約七、八百万の本島人に対して絶対支配的な立場に立っていた。それが子供の眼にも、ときどき、破れて見える。たとえば、野菜とか魚を本島人が売りにくる場合、細君たちは値ぎるわけです。ある程度どころか、度を越えて相手がだめだっていってもなお値ぎるわけです。ひどい場合は四銭とか五銭とか自分でつけた値段の金だけ置いて、家の中へはいってしまう。また、ひどい男は人力車に乗って、車夫の頭を後ろから蹴る。そういう時に子供のおさない心も二つに破れざるを得ない」
異常といえばずいぶん異常な環境で育った。それが埴谷雄高という変わった考えをする作家のある部分を形作っているようだ。
中学生のころに東京へ越してきた埴谷は、日本大学に進み、20歳のころ中途退学。
大学をやめて、21歳のころ、今度は日本共産党に入党する。
その翌年の22歳のとき、逮捕、投獄される。
独房のなかで埴谷は、カントの『純粋理性批判』を愛読した。それが彼に大きな転機をもたらした。
23歳のころ、埴谷は転向(政治思想の信条を変えること)し、出所する。
そもそも彼はなにか悪いことをしたわけではなく、たしか警官に家のなかを捜索され、隠しておいたつもりだった左翼系の思想書が見つかり、それで逮捕されたのだったと思う。
当時は左翼に対する弾圧がはげしかったころで、そういう本をもっていただけで、左翼思想のもち主、つまり国家を転覆する準備をしている者である、だから逮捕する、と、治安維持法を名目に、官憲は誰でも刑務所にぶちこむことができたわけで、そうやってぶちこまれた埴谷は、刑務所で、
「もう、左翼思想は信じません」
と約束して、それが官憲側の認めるところとなったのである。
刑務所に入る前、ずっと政治活動家だった埴谷は、出所後は一転して文学者となった。
戦中は外国文学を翻訳し、戦後になると同人誌に小説や評論を発表した。
終戦の年、1945年の暮れに、同人誌に発表したのが、埴谷の代表作である形而上小説『死霊(しれい)』の最初の部分で、この作品はそれ以後、数十年にわたって、さまざまな文学雑誌に断続的に連載されていったが、埴谷の死によってついに未刊のまま終わることになった。
話が物語の筋でなく、観念的な議論で進んでいくというこの特殊な大長編小説は、全体で12章から成る構想だったところ、第9章で中断された。
埴谷は、1997年に吉祥寺の自宅で没している。
自分は『死霊』は、読んでみようと二度挑戦して、二度とも数ページで挫折した経験がある。
谷崎潤一郎賞を受賞した埴谷の小説集『闇のなかの黒い馬』は全部読んだけれど、読後感は、すごいとか、おもしろいとかいうのでなく、ただ、やっぱり変わっているなあ、というものだった。
ほかに、彼の短編をいくつか読んだことがあるが、首をひねったり、頭を抱えたりしてしまうものが多かった。
やはり、ただ者ではないので、世のなかによくある「読んでよかったあ」というたぐいの小説を書かないのである。
小説はわからないけれど、その随筆や評論は自分は大好きで、一時は彼の評論集を20冊以上買い集めてもっていた。
いまはだいぶ処分して、気に入ったものだけ数冊を手元に残してある。
埴谷の評論や随筆を、どうしても読みたくなるときがあって、全部は手離せないのである。
あの、一文一文が長い、ていねいに風呂敷を折り畳むように折り畳まれた論理を、しだいに広げて、目にも鮮やかな柄を見せていくような文章は、随筆や評論だと、なんともいえない独特の味わいと説得力があって、その魅力に頭がくらくらする。
それは、たとえば、埴谷雄高が群像新人賞の選者をしていたとき、当選作となった、村上龍の『限り泣く透明に近いブルー』を評したこんな一節にも、よくその特徴があわわれていると思う。
「この作者の発想が鮮明で、しかもつぎつぎととぎれもなく奔出してくるその持続性と、なんらのいや味もなくセックスを描く平静性は、恐らく、生得の資質であると思われるけれども、また、この作品の全体の構成が十分に考えぬかれたものであることを思いあわすとき、この若さですでにこの作者に冷静な反省力も構成力も備えられていることを知らされる。これは感覚と思索が或る根本的な場で緊密につながっていることにほかならぬのであって、まさに『驚き』である」
この大作家に、こんなふうに褒められて、当時、美大の一学生にすぎなかった村上龍は、うれしかったろうと思う。
ちなみに、この「観念の作家」埴谷雄高と、「感性の作家」村上龍を、文学の西の地平線と、東の地平線と見立てて、文学のありようを論じたのが、中島梓のデビュー作『文学の輪郭』である。
また、村上龍は、自分を推しだしてくれた恩人である埴谷雄高の死に際して、こう書いている。
「埴谷雄高の死の知らせを聞いたとき、また一人豊かな時代を生きた人が亡くなったな、と思った。作家にとって豊かな時代というのは、日常的なこととして危機感が存在し、他者との出会いの可能性と予感に満ち、世界に対して開かれていた時代のことを言う。(中略)埴谷雄高は、『世界』に飢え、『世界』とつながっていた作家だったと思う」(「豊かな時代の終わり」)
埴谷雄高は1951年、「誰のために小説を書くか?」というアンケートにこう答えている。
「シェークスピア? うん、まあね。ドストエフスキイ? いや、あれはきらいだ。そして、こんな会話を聞いたりすると、私などとうてい一人の読者も得られぬと思わざるを得ません。せいぜい何かを勘違いして読んでくれる読者でもあてにしているより仕方もありません」
また、埴谷雄高は、同じときのアンケートに答え、日本文学の代表作として、
『暗夜行路』
『都会の憂鬱』
『雪国』
の三編をあげている。
そうかもしれないなあ、と思う。
ほかの連中がかんたんに思いつくようなことは、口が裂けてもいわないぞ、と斜に構えていたような感じの変わり者だったけれど、世評とか時流とかに惑わされず、本質をまっすぐ見抜く目をもっていた、埴谷雄高はそういう人だった気がする。
(2012年12月10日)
著書
『新入社員マナー常識』
『出版の日本語幻想』