世界を変えた砂糖の歴史① 「砂糖」を握るものが世界を制す | 蝦夷之風/EZO no KAZE

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武蔵の国から移り住んで以来、日増しに高まる「北海道」への思いを、かつて「蝦夷」といわれたこの地の道筋をたどりながら、つれづれに書き留めてみます。

 

「コーヒーと砂糖がヨーロッパ人の幸福にとって不可欠か否かは知らない。しかし、この2つの生産物が世界の2つの広大な地域に不幸をもたらしたことだけは確実だ。すなわちアメリカでは、これらの植物を栽培する土地を求めて人々が追い払われ、アフリカでは、それらの栽培にあたるべき労働力を求めて人々が連行されたのである」

J・H・ベルナルダン・ド・サン=ピエール(*文末に注)

 

巻頭に仏人作家・ベルナルダンのこの言葉を引用した『甘さと権力/砂糖が語る近代史』で、著者のシドニー・W・ミンツは、今や世界中の人々の生活必需品となった「砂糖」が、中南米やアフリカの人々の犠牲によって作られてきた経緯を綿密な調査(実際にサトウキビ農園で1年以上も働いた)と膨大な資料をもって解き明かしました。そして、最初は薬、その後は富裕層のための奢侈品だった「砂糖」が、どのように世界各地に普及し、いつから庶民の食卓に届くようになったのか、またそのことが私たちの社会や文化にどんな影響を与えたのかを解説しました。この歴史的名著は、その後、さまざまな「モノの世界史」による文明批判の先駆けとなります。

 

脱線(?)したまま、今回は中南米編に突入し、なかなか北海道には帰れませんが、でも北海道にも関わって来るお話です。

 

サトウキビを初めて味わった大王の将軍

 

「甘み」と言えば、古代エジプト以来、各地で採取されてきた「蜂蜜」もありますが、ここではサトウキビを原料として早期に工業製品化された「蔗糖」を「砂糖」の主役として取り上げます(ちなみに砂糖ダイコン由来の「てんさい糖」の出現は19世紀です)。

 

サトウキビの起源は紀元前8000年頃のニューギニアといわれ、その後、3つのルート、すなわちフィリピン、インド、インドネシアへと伝播します。史上初めてサトウキビ由来の「砂糖」を味わったと記録に残るのが、紀元前327年のアレクサンダー大王の東征です。彼の幕下の将軍ネアルコスが、「インドには、蜂も来ないのに甘い蜜を出す葦があり、実は結ばないが、それから飲み物が作れる。この飲み物は飲むと酩酊する」と伝えています。

 

サトウキビはイネ科の大型草類で6種が知られており、その中の「サッカルム・オフィキナールム」(「薬屋の砂糖」の意味)がまろやかで甘く、水分の多い茎を持つことが特徴だったため、主な栽培種となりました。その種名からも分かるように、「結晶は水に溶けやすく、胃腸にもよく、腎臓や膀胱の痛みを和らげる」という薬効が注目され、初期は高価な薬品として取引されました。(ブドウ糖が「点滴」として使われていることからもその薬効は明らかですが、今では健康を害すると糖分を忌避する傾向が強いのは歴史の皮肉ですね)

 

8世紀以降、イスラム勢力によって東地中海から北アフリカでサトウキビの栽培と製糖が行なわれ、11世紀になると十字軍によって欧州へと伝わります。依然、薬としての使用が主で、その後、ヨーロッパを襲った黒死病(ペスト)対策として砂糖水が使われたともいいます。

 

カリブ海をめぐる英仏の砂糖戦争

 

砂糖の歴史で最初の転機となったのがコロンブスの航海です。カリブ海のエスパニョラ島に到着したコロンブスはそこで砂金を見つけ、突然のゴールドラッシュに沸きますが、わずか20年で採りつくすことに。代わってカナリア諸島など大西洋の島々で栽培していたサトウキビを移植します。しかし、それまで他の大陸の人間と交流していなかったカリブの人たちは、スペイン人が持ち込んだウィルスにまったく抵抗力がなく、インフルエンザやはしか、天然痘などで絶滅の危機に瀕します。慌てたスペイン人は周りのキューバ、ジャマイカ、プエルトリコなどから先住民を駆り集めるも、結果は同じで、カリブの原住民はほとんどいなくなってしまいます。

 

そもそもサトウキビは十分な熱と湿度があれば9か月から18か月のどこかで収穫の最盛期を迎え、一度刈った株でも12か月で成長します。ただし、収穫時期を間違えると糖分が減ってしまうので成熟度合いに注意が必要です。また刈り取ってすぐに破砕・搾汁しないと脱水、変質、発酵などが起きてしまうため、常に作業の進行具合を監視していなければなりません。さらに抽出したジュースを液体凝固させるために加熱と冷却を繰り返し、砂糖や糖蜜(そしてラム酒も)などに加工します。ここまでの作業を集中的に、効率的に行う必要があるため、多くの労働力が求められたのですが、これを担うことになったのがアフリカの黒人奴隷でした。

 

実はカリブ海に拠点を築いたスペインは、あっという間に「砂糖」事業から撤退してしまうのですが、その最大の理由と思われるのは、この黒人奴隷の供給先であるアフリカに拠点を持っていなかったことです。また中南米で「金」というお宝を大量に略奪してきた彼らにすれば、地味なサトウキビ栽培に魅力を感じなかったのかもしれません。代わって、アジアで香料貿易を独占していたポルトガルが、ブラジルという新天地でアフリカの奴隷を使って砂糖のプランテーションを拡大していき、「16世紀は砂糖史におけるブラジルの世紀」と言われるまでに成長します。まさに黒人奴隷の確保が「砂糖」事業の成否を握っていたことを示しています。

 

16~17世紀になると、いよいよ英仏両国がカリブ海に参入してきます。英国はバルバドス島で、フランスはマルティニーク島で本格的な砂糖の生産を開始。さらに英国はスペインを追い出してジャマイカなどへも農場を広げ、1740年までは英国が砂糖市場を席捲します。しかし、フランス製の砂糖が安かったこともあり、砂糖の英仏戦争はいったんフランスに凱歌が上がります。

 

「目覚めの一杯」として庶民に普及

 

そもそも「砂糖」には5つの用途、医薬品、香料、装飾用素材、甘味料、保存料(砂糖漬けなど)がありましたが、これは富裕層の奢侈品としての用途でした。しかし、生産量の大幅な増加で砂糖価格が下がり、同時にお茶やコーヒーが嗜好品として普及したことで、ようやく一般向けの甘味料として消費されていくことになります。特に英国での砂糖消費量は飛躍的に増え続け、1663年~1775年の間に、イングランドとウェールズの砂糖消費量は20倍に増えています。この間、英国内では4年に1度訪れる凶作に苦しめられ、農業生産は安定せず、庶民の食生活は貧しかったのですが、手軽になった砂糖は安価なカロリー源として庶民の間に広がっていきました。

 

「甘味料としての砂糖は、3つのエキゾチックな熱帯性の輸入品、茶、コーヒー、チョコレート(当時は飲料でした)と結びついて重要性を増していった」とミンツは解説します。これらの飲料は苦みが特徴で、含有するカフェインが強烈な「目覚め」を引き起こします。英国の労働者は毎夜飲むジンで二日酔いに陥りやすかったこともあり、「熱い液体でアルコール分が無く、苦みがあり、カロリーのない刺激物を砂糖の甘みで覆ってくれる朝の1杯のおかげで、毎朝、時間通りに工場に出て行くことができた」のです。そんな目覚めの1杯は雇用主には最適だったのは確かです。

 

こうして、英国の庶民へと広がった「砂糖」は、今度は「労働者」という新たな奴隷の登場を招くことになります。(以下、次回へ)

 

 

*フランスの作家・博物学者(1737-1814)。軍事技師として働くも、軍規違反により失職し、欧州各地を放浪後、インド洋のモーリシャスに赴任。帰国後、友人のJ・ルソーの勧めで書いた『自然の研究』が評価され、小説『ポールとヴィルジニー』で作家としての地位を築く。死後、監督官も務めたパリの国立植物園に銅像が建てられた。