こんにちは、Salaiです。

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4月始めに本業の繁忙期がひと段落した時、無性に絵を描きたくなった。

こんな風に書くと、「この人、絵心あるのかしら?」と思われるかもしれないけれど、私は絵が下手。

ほら、この通り‥

鉛筆やペンを手に持って、絵らしいものを描くことはできるけれど、それが何の絵かはわかってもらえない。
…と言うより、私自身、描くことだけで一杯いっぱいで、描く対象のことなど考えていない。

ある時、こんなことがあった。

「何か描いて」と言われ、楕円形に眼と口を描いた。

友人たちは、「猫よね?」「えっ!熊でしょ」などと言い合っていたけれど、そんなやり取りを聞いて初めて、私は、「これ何だろう?」と、描いたものについて考えたのだった。

目の前にあったのは、意味不明な生き物の絵。

いや、意味不明なのは見ている人たちにとってのことで、私は描いたことに満足していた。

私の中では、「描く」ことにしか意識がなく、「なにを」描くかなんて、全く考えていなかったのだった。

見るべき対象が、鼻から存在していなかったのだっ
だから、私が描いたものが、相手に伝わるはずがない。

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私の意識の中には、他人がいない。
‥と言うより、そのことに気づいた今となっては、「他人がいなかった」と過去形で書くべきか。
過去形になったとしても、その感覚を、今もって詳しく説明できないけれど。

私以外の人は、どうやら「他者」というものを意識して生きているようだと気づいたのは、いつのことだったか。

この「他人がいない感覚」を、なんとか言葉で説明できないものか、と考えていたときに、「対象物がいない絵を描く私」に思い当たった。

その関連で思い出したのが、たか子さんのブログ講座でのこと。ブログについていくつか質問に答えていくなかで、唯一どうしても答えられなかった質問が、「想定している読者は?」という質問だった。

頭を絞って考えた。
……
……
……
さっぱり答えが出ない。
答えを見つけるための思考回路そのものがない、としか言えない感覚。

対象を意識したことがないから、どう考えれば良いのかもわからないのだった。

私が書くものが自己完結し過ぎているのは、きっとそのせい。

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そんな私が、「絵を描きたい」と思ったのは、いかなる心境の変化なのか。

対象となる相手を、無心に見てみたいと思ったのは確か。

ではその先、どうしたかったのか。

このことを紐解いていくには、もう少し時間がかかるかもしれない。

でもひとつ言えることは、「絵を描いてみたい」という衝動を覚えるまでの私は、自分のエゴが作り出した世界にい続けていたということ。

人の本質って、細かいところに現れるんだなあ、と思った。

気づいたからには、この世界から一歩踏み出してみよう。
全く違う世界が拡がっているような気がする。