Q

森鴎外の『高瀬舟』についてです。
高瀬舟の内容と合ってるものを教えて下さい

 

 

A

1 × 「殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。」
2 〇 初出:「中央公論 第三十一年第一號」 1916(大正5)年1月
3 〇 「それは喜助の顏が縱から見ても、横から見ても、いかにも樂しさうで、若し役人に對する氣兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。」
4 × 「この者、西陣高機の空引きに傭はれありきし者なるが、その罪蹟は、兄弟の者、同じくその日を過ぐし兼ね、貧困に迫りて自害をしかかり、死に兼ね居りけるを、この者見付けて、とても助かるまじき体なれば、苦痛をさせんよりはと、手伝ひて殺しぬるその科により、島へ遣はさるるなりけらし。」(「翁草」巻百十七「雑話 流人の話」)

1 〇 「庄兵衞は今さらのやうに驚異の目をみはつて喜助を見た。」
2 × 「弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、『医者がなんになる、ああ、苦しい、早く拔いてくれ、頼む』と云ふのでございます。」
3 〇 「わたくしは剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて來ました。留守の間、弟に藥を飮ませたり何かしてくれるやうに、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もう大ぶ内のなかが暗くなつてゐましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでした…」
4 × 「森鴎外の小説「舞姫」を巡る文学論争。明治23年(1890)1月に「舞姫」が雑誌「国民之友」に掲載され、同年2月に文芸評論家の石橋忍月が「舞姫」と題する批評を気取半之丞の筆名で発表。恋愛と功名の両立しえない人生の境遇をとりあげ、主人公の太田が意志薄弱であることなどを批判した。これに対し、鴎外は作中人物の相沢謙吉を筆名に用いた反論「気取半之丞に与ふる書」を発表。同年5月にかけて、文芸誌上での激しい文学論的応酬がなされた。日本における初の本格的な近代文学論争とされる。」(デジタル大辞泉 「「舞姫」論争」)