Q

三船の才」の大納言の台詞にある「のたまふなる」の品詞分解が理解できません
「なる」の識別をするとき、一個上を見て終止だったら伝聞推定、連体・体言だったら断定 ということはわかってたのですが、
「のたまふ」は四段なので終止か連体かわからないじゃないですか
これってニュアンスで訳せってことですかね
モヤモヤしてるので回答お願いします…!
Q補足
品詞分解のサイトには伝聞推定ってかいてたのにAIくん断定で訳しててますます意味わかんない(;_;)

 

A

訳の前に、意味を考えるべきです
【御自らものたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし。」とのたまふなる。】
「御自(おほんみづか)ら」とは、大納言藤原公任を指します
ところでこの『大鏡』という作品、どういう作品か、理解なさっていますか
大宅世継、夏山繁樹という二人の老人の昔語りという体裁であることをご存じですか
この二人が自分の体験や見聞を、雲林院の菩提講に集まった人々に語るという形式であることをすでに学ばれていますか
この二人は百数十年生きた老人だという設定ですが、雲林院の菩提講に集まり、広間でその始まるのを待つ人々と同じような、貴族階級ではない一般人であることは、おわかりでしょうか
彼らは貴族に召し使われ、その下僕として貴人の近くで長年働いていたという設定になっています
但し、彼らの主人は大納言公任であったわけではありません
そのような属性の人が、大納言の上の発話を直接に耳にしたのなら、確かな事実として断定的に語ることはあったでしょう
大納言の上の発言内容は、自分の内面を開示した、内心の吐露です
そのような内容を、当時の貴族の価値からからすれば虫けらにも等しい下僕が近くにいて、彼らが直接に耳にするような場で話したでしょうか
そうではなく、語り手の老人がどこかで耳にした話として語ったのなら、伝聞した事実として語ったことになります
さて、どちらだと考えるのが古文の解釈として妥当か、あるいは自然かを考えて、助動詞「なる」が断定か伝聞かは判断します
一般的には伝聞と考えるのが自然であり、妥当だと考えられています
以上を「ニュアンス」とお考えになる事は、あなたのご自由です
けれども、作品の形式や語り手の属性も考慮して判断するのが望ましいとすれば、判断根拠は「ニュアンス」といったぼんやりしたものだけではないとは思います