Q

平家物語についてです。
平家は1183年に太宰府に行きますよね?だけど、

1184年2月に福原で清盛の追善供養や官位昇進などが行われた。帰京の淡い希望にすがるものたちも出てきた。
と、あるのですが、また福原に戻って来たのですか?太宰府組と福原に残った組がいるとのことでしょうか?範頼、義経が三草山で平家軍と戦っている時期です。
よろしくお願いいたします

 

A

覚一本流布本では、巻9「樋口の斬られ」の後半に、平家が瀬戸内を中心に勢力を回復し、福原(一の谷)まで戻って来たことが語られています
【さる程に、平家は去年の冬の頃より、讃岐の国八島の磯を出でて、摂津の国難波潟におし渡り、西は一の谷を城郭に構へ、東は生田の森を大手の木戸口とぞ定めける。その間、福原、兵庫、板宿、須磨に籠る勢、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国をうち従へて、召さるる所の軍兵、十万余騎とぞ聞こえし。】
「去年」とあるのは寿永二年(1183年)のことで、義仲の敗死が寿永三年正月、その後、樋口兼光が切られ、このくだりに続きます
寿永二年8月17日、平家は大宰府に着きます
【あくる日十七日、平家は筑前の国三笠の郡太宰府にこそ著き給へ。】(巻8「那都羅」)
しかし、平家は九州でも劣勢となり、間もなく大宰府を落ちます
【平家は、緒方三郎惟義が三万余騎の勢にて既に寄すと聞こえしかば、取る物も取りあへず太宰府をこそ落ち給へ。】(巻8「太宰府落ち」)
その後、九州北部を移動した後、小松家からは脱落者も出ます
【十月のころほひ、小松殿の三男左中将清経は、何事も深う思ひ入り給へる人にておはしけるが、ある月の夜、船端に立ち出でて、横笛音取朗詠して遊ばされけるが、「都をば源氏のために攻め落とされ、鎮西をば惟義がために追ひ出され、網にかかれる魚の如し。いづちへ行かば遁るべきかは。ながらへはつべき身にもあらず。」とて、静かに経読み念仏して、海にぞ沈み給ひける。】(同)
そして寿永二年冬、四国讃岐屋島へ渡ります
【平家、あま小船に召したる由承つて、大船百余艘点じて参らせたりければ、平家、これに乗り移り、四国へぞ渡られける。阿波民部重能が沙汰として、讃岐国八島の磯に、かたのやうなる板屋の内裏や御所をぞ造らせける。その程は、あやしの民屋を皇居とするに及ばねば、船を御所とぞ定めける。】(同)
一の谷の合戦は翌寿永三年二月です
平家は、都に残った頼盛や入水した清経など、脱落者を出すものの、寿永二年7月に都落ちしてから、九州北部各地、四国屋島を経て、寿永二年冬に一の谷(福原)に戻るまで、ほぼ一団となって移動しています
寿永二年冬の平家の瀬戸内沿岸を中心とした西日本平定の戦いは、巻8「六箇度合戦」で語られています
平家が太宰府にいたのはせいぜい一か月ほどです