Q

山月記の問題で、
李徴は自分が「人間の心」がある証拠として、「人語を操る」「複雑な思考ができる」「経書の章句を諳んずることができる」を挙げている。「人間」が「人間」である証拠は何か?理由とともに答えなさい。
教えて欲しいです!

 

A

客観的な正解のある問いではなく、「教えてほしい」というご要望はあたりません
あくまで一つの答えとしてお答えします
李徴は、肉体が急変し、人ではない者に変化したことに気付き、これでは人として生きていくことはもはやできないと絶望します
このように、彼が自分を顧みて「自分は人である(もしくは、もはや人ではない)」と認識していたことは、彼が人である一つの特徴であると言えます
この問いについて想起するのは、星新一「服を着たゾウ」という作品です
ある時催眠術師に「お前は人間である」という催眠術を掛けられたゾウは、「自分が人間である」と思い込み、動物園の檻から出、街へ出ます
人の知能を持ち、人語を操り、複雑な思考のできる彼は、人として暮らし始め、大成功します
ある取材で成功の秘訣を問われた彼は、「自分はある時突然、人としての自覚を得たが、人とはいかなる存在かがまるでわからず、そこで過去の聖人賢者たちから学び、その教えを守って生きて来ただけだ」と答えます
あなたの問いを考えるうちに、「服を着たゾウ」は「山月記」の裏返しであり、あるいはオマージュかも知れないと気付きました
ご質問に回答します(あくまで一つの答えに過ぎません)
「人間が人間である」とは、「自分は人間であるという自覚をもって生きること」であると私は思いました
李徴が、肉体が虎に変化した後もなお「人間の心が還って来る/数時間は/人間にかえる」と語っているのは、それを示しています
すなわち、「人間の心が還って来る」とは「自分は人間であるという自覚が還って来る」ということにほかならないからです