Q

高二古典。兼盛と忠見についてです。
恋すてふ…思ひそめしか
さて、すでに御前にて講じて、判ぜられけるに、兼盛が歌に、
つつめども …
この部分で2つ質問があるのですが
①「兼盛が歌に」の「が」は格助詞の中でも連体修飾格であっていますか?
②「判ぜられける」の「られ」の部分でいくつかのサイトをみても2通りの解釈があり、受け身でとって「兼盛が判者に判定される」、または尊敬でとって「帝が忠見の歌を判定なさる」と訳しているものがありました。
「て」は主語が変わりにくいと習っているので、その前の部分の「講じ」た人は忠見であり、普通に考えると私は前者かなと考えたのですが。
もし後者ならどのような場合に「て」でも主語が変わるのか、教えて頂きたいです。

 

A

①「兼盛が歌に」の「が」は格助詞の中でも連体修飾格であっていますか?
あっています
②(質問主旨省略)
【初恋といふ題を給はりて、忠見、名歌詠み出だしたりと思ひて、兼盛もいかでこれほどの歌よむべきとぞ思ひける。
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
さて、すでに御前にて講じて、判ぜられけるに、兼盛が歌に、
つつめども色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで
判者ども、名歌なりければ判じわづらひて、天気をうかがひけるに、帝、忠見が歌をば、両三度御詠ありけり。】
上の箇所で、「さて」という接続詞があり、場面を転換しています
「さて」までの語りの焦点は忠見とその歌ですが、「さて」の後は歌合の場自体とその場の人々、講師(歌を読み上げる人)や判者、帝、他の歌人にそれが移っています
「すでに御前にて講じて、判ぜられける」の主語は、歌合の講師、判者です(あなたの【その前の部分の「講じ」た人は忠見であり】は初歩的な誤りです)
語りの焦点(語り手の視点)の切り替えを読者に示すのが接続詞「さて」です(英語のthenとほぼ同じ働きです)
以上から、「られ」は尊敬と考え、説明するのが、古文理解としては自然です
「受身」と考えたり説明したりするのは筋が悪く、そういう教授者や参考書で学ぶと、読む力は伸びにくいです