Q

「臨終の念仏候へ」(最後の念仏をなさいませ)で、「候へ」の意味って「あり」の丁寧動詞ですか?それとも丁寧の補助動詞ですか?
また、「なさる」って尊敬だと思うのですが、「候ふ」の訳に使っていいんですか?
(岩屋の草子で、姫を佐藤門左衛門が殺そうとしている場面です)

 

A

丁寧の補助動詞です
「念仏」は、動作性を含意する名詞です
動作性を含意する名詞の下につく「あり」は補助動詞と説明され、ここの「候ふ」はその丁寧語です
以下、古語辞典の補助動詞「あり」の説明です
【尊敬の補助動詞「あり」 …なさる。お…なる。
▽敬意を含む名詞や「御元服」など尊敬の接頭語をもつ名詞の下に付く。
平家物語 灌頂・大原御幸「法皇これを叡覧(えいらん)あって」[訳] 法皇はこの景色をご覧なさって。◇中世以降の用法。】
同じく補助動詞「ある」の国語辞典の説明です
【動詞の連用形や動作性の漢語名詞などに付いて、多く「お…ある」「御 (ご) …ある」の形で、その動作をする人に対する尊敬を表す。「おいで—・れ」「御笑覧—・れ」】
また、「なさいませ」の訳は、結論としては正確で良い訳です
「候ふ」に尊敬の意味はありませんが、丁寧の意を除いた補助動詞「あり」には尊敬の意味があります
丁寧の補助動詞「候ふ」を尊敬の意味を含めて訳すことは、確かに初学者は戸惑うでしょう
しかしこの「動作性の漢語名詞などに付き尊敬の意を表す補助動詞『あり』の丁寧語『候ふ』」は、中世の作品にはよく見る形です
以下、平家物語巻8・9から類似の表現を抜粋します
「錦の直垂を御免候へかし」(平家物語巻8実盛最後)
「今井殿も御自害候ふ。」(平家物語巻9樋口斬られ)
「あれ御覧候へ。」(平家物語巻9敦盛最後)

 

返信Q

ご回答ありがとうございます!
念仏は、敬意を含む名詞や「御元服」など尊敬の接頭語をもつ名詞ではないと思うのですが、それに該当しなくても、補助動詞ですか?
また、「敬意を含まない漢語性の名詞+あり=尊敬の意味をもつ丁寧の補助動詞」の実用例を、挙げてくださると幸いです。

 

返信A

確かにご質問の例は「御念仏候へ」でなく「念仏候へ」です
しかし敬語表現にむらがあるのは自然かつ一般です
話者の聞き手に対する敬意(の存在)は「候へ」が証明しています
「念仏」に「御」がないからといって、それが話者の聞き手に対する敬意を否定する根拠にはなりません((念)仏に対する敬意の存在は自明です)

私の回答は二段になっています
中世以降に頻出する【敬意を含む動作性の名詞+尊敬の補助動詞「あり」】の【補助動詞「あり」の丁寧の補助動詞「候ふ」への置換】としてご質問の例を説明しています

ご質問に回答します
「敬意を含まない漢語性の名詞+あり=尊敬の意味をもつ丁寧の補助動詞」の実用例は存じません
それらは補助動詞でなく動詞であるはずです
それと最初のご質問の例とは無関係です
そもそも【敬意を含む動作性の名詞+尊敬の補助動詞「あり」】が文法説明として破格です
それを忘却しての思考は無意味です

 

「御念仏+あり」「御念仏+候ふ」の実例です
【まづ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮伏し拝ませおはしまし、その後西方浄土の来迎に預らんと、誓はせおはしまして、御念仏候ふべし。】
【その後西に向はせ給ひて御念仏ありしかば、二位の尼、先帝を抱き参らせて、海に沈みしありさま、】
ともに平家物語潅頂巻「六道の沙汰」より、上は二位尼の安徳天皇への、下は建礼門院の後白河法皇への発話です
「候へ」「あり」、違う表現がとられています
ここから二人の敬意に何らかの差異があるとあなたはお考えになりますか
私はそうは考えません
「念仏」に「御」の有無で、それに続く「候ふ」の品詞説明が変わるなどと考えるのは私にはナンセンスです
並レベルの古文教師に【「念仏候へ」の「候へ」は補助動詞である】という説明(品詞分解)が理解し難いのは想像はできます

 

以下は補足で、日本国語大辞典「さうらふ」補助動詞の説明です
【そうろう さうら・ふ【候】
[二] (一)②の性質の敬語を補助動詞として用いる。
① 補助動詞として用いる「ある」を、聞き手に対し、丁重に表現する。】
上の②の説明は以下の通りです
【対話や消息文において、話しかたを丁重にし、聞き手を敬ったり、儀礼的に自己の品位を保ったりするのに用いる丁寧語。】

 

返信Q

確かに、御のあるなしで、補助動詞か本動詞か変わるのはおかしいですね。最初に、早く回答してくださりありがとうございました!