Q

吾輩は猫である』の中で解釈の仕方がわからない部分があるので教えてください。
10章の細君と雪江さんとの会話で八木さんが雪江さんの学校で演説した内容を雪江さんが細君に語っているシーンがあります。
八木さんは、演説で『これからはなんでも率直に語るようにしよう、、』という様な事を説いた、、そうですが、一緒に聴いていた金田の富子さんはなんで『失敬だ、、』と感じたのか、、、?教えてください。
金田の富子さんはハイカラでむしろ率直タイプだと思うので意味がわからないのです。(東風さんから詩集をもらったと周囲に吹聴したりもしてますよね)
よろしくお願い致します。

 

A

「ええ、それから八木先生がね、今日は御婦人の会でありますが、私がかような御話をわざわざ致したのは少々考があるので、こう申すと失礼かも知れませんが、婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から廻りくどい手段をとる弊がある。もっともこれは御婦人に限った事でない。明治の代は男子といえども、文明の弊を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手数と労力を費して、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると誤解しているものが多いようだが、これ等は開化の業に束縛された畸形児である。別に論ずるに及ばん。ただ御婦人にあってはなるべくただいま申した昔話を御記憶になって、いざと云う場合にはどうか馬鹿竹のような正直な了見で物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑の間に起るいまわしき葛藤の三分一はたしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂胆があればあるほど、その魂胆が祟って不幸の源をなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい、と云う演説なの」
「へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になる気なの」
「やだわ、馬鹿竹だなんて。そんなものになりたくはないわ。金田の富子さんなんぞは失敬だって大変怒ってよ」

ふつうに読むと、上の演説は女性をディスっています
・婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から廻りくどい手段をとる弊がある
・多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである
講演会という公の場で男性講師が女性一般に訓戒し、女性一般の属性としてそれを批判したのは事実です
それに対し一女性が失礼であると怒りを感じ、それを表明したと普通に解釈できます
金田の富子は率直な人であるとすれば、だからこそ怒りを率直に表明したと読めます
講演の内容(地蔵を動かす話)は寓話としておもしろいですが、それを性差別に直結させている点にこの作者の特徴が表れているように思います

 

質問者からのお礼コメント
なるほど、、よーくわかりました。