Q

太宰治の水仙について質問です。
文の最後の方ですが、なぜ、「僕」は静子夫人の絵を見たくなったのですか?

 

A

本文にその動機(理由にあたる気持ち)は書かれています
【僕は急に、静子さんの絵を見たくなったのである。妙な予感がして来た。いい絵だ、すばらしくいい絵だ。きっと、そうだ。】
「僕」はこの時まで一度も静子の絵を見てはいません
「僕」には静子の絵を見る気はなく、見ても仕方がない、どうせろくな絵ではないに決まっているという先入観がありました
【「たくさんです。たいていわかっています。」】
筆談の結果、そうした先入観が消え、見て絵の価値を自分で確かめる気になったのです
「なぜ見たくなったのか」は、「なぜ『たくさんです。たいていわかっています』と考えたのか」と表裏一体の問いです
一方だけ単独で考えるべき問題ではありません