夏目漱石「こころ」 私が先生を「先生」と呼ぶ理由 | 古典も現代文も本当は面白いはずなのに

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Yahoo!知恵袋でのベストアンサー・自選回答集積ブログ(でしたが、最近は21世紀前半の日本の世相の記録とも考えています。個人情報保護のため一部改変あり。)

Q

夏目漱石の「こころ」で、どうして私は先生を先生と呼んでいるのですか?

 

A

特に理由はなかったようです
出会って間もなく、まだ互いに姓名を知らない時に、「先生」と呼んだことが本文に見えます
【それから中二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分だいぶ長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急にきまりが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。】(上3)
これ以降、呼称は先生の死までずっと「先生」であったようです
先生の死後、この作品の語り手として物語る時の呼称も、「その方が自然だから」という理由で「先生」と呼んでいます
【私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。】(上1)
かつて「先生」と呼んだこと、その人の死後の今なおそう呼ぶことに特別な理由はなく、他にそれに優る適当な呼称は、私=語り手にはがなかったし、ないということのようです
この「先生」という呼称は、語り手=私の先生に対する思いを良く表していて、先生の生前も死後も、先生は語り手=私にとっては「先生」であったという意味を、むしろ考えるべきでしょう
(以下は一般論ですが、文学作品を考える場合、作品に関する何かの理由を考えるのは、たいてい無効、無意味であり、考えるべきは常に意味であると私は思います)

 

質問者からのお礼コメント
とっても分かりやすい解説ありがとうございます!