Q

魯迅の故郷の中に「〜手製の偶像にすぎない」とあるのですが この言葉に共感しますか?
国語で困っているので自分の立場と意見とともに教えて欲しいです!
「〜手製の偶像にすぎない」=希望は簡単には叶わない という意味だそうです
 

A

「〜手製の偶像にすぎない」=希望は簡単には叶わない、などという意味では決してありません
「手製」とは「自分で作った」という意味、「偶像」とは、「それに信仰礼拝して利益(りやく)が授かるのを願う物」という意味です
【彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくい】とありますが、「彼の望むもの」は「香炉と燭台」というモノであり、「わたしの望むもの」は「希望」という抽象的なものです
「香炉と燭台」は、既成の宗教によって与えられたモノであり、誰でも手に入れやすいものです
「希望」は、形のない抽象的なものである上に、生活が苦しく余裕のない人々にとっては、その価値もわからなければ望みもしないものであるという意味で、「手に入りにくい」と言えます
【今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくいだけだ】という二文は、「他力本願的に希望を夢見ることは、ルントウが偶像を拝むのと同様、それだけでは無意味で何も違いはない」という「私」の認識を示しています
その二文に、ラストの【思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ】という4文を合わせれば、「多くの人が手製の=主体的に獲得した希望を心に抱き、実現を目指して努力すれば、道のようにいつかは実現する」という「私」の覚悟を示しているとふつうは読みます
共感を学習者に問う前に、作品の読解をしっかりと教え理解させる必要がありますが、それが不十分であるように思います
以上をご理解できたなら、あとはあなたがご自分のお考えを書けるでしょう
書けなければ潔く諦めましょう
ちなみに、ここ20年ほど、特に東日本大震災後の日本国民はルントウのようになっています
働く人は社畜化・バ畜化され、国民負担率は江戸時代の5公5民より悪化し、教育や福祉は超低水準、国政選挙で投票率が5割、地方選挙で3割程度しかありません
みなが抽象的な民主主義や人権や自由の大切さを考える余裕を失い、社会が貧困化し荒廃しています
およそ100年前の「故郷」の時代とは、日本と中国はまるで逆転しています
その事に気付かないと、「故郷」を読んだ意味も学んだ意味もないと、私は思います

 

返信Q

希望は簡単には叶わないという文は実際に私が授業で習った際に教師からそういう意味だよと教えられたことなので汗ー

 

返信A

で、何でしょうか?
ご質問に「という意味だそうです」とある事から、それは十分推測でき、その上で回答しております
学校の教師が教えた事を前提にあなた方がお考えになりたい事、正体不明の私の回答を信じがたい事はともに理解できます
私は、誰がどこでどう書き、言おうと、正しい事は正しく、誤りは誤りだと考えております
「故郷」は現在、日本の中3用教科書に各社が載せています
私は60代の元高校国語教師で、今は高校国語用教科書や教師用指導書、問題集の作成の仕事をしています
中高の現場の現状は熟知しており、その上で回答しております
あなたのこのご質問は、あなただけでなく、全国の現在と未来の中3生と国語教師が読み、参考にする可能性があります
このご質問をあなたが消去なさらない限り、検索され、多くの人が読みます(たとえお消しになっても、別に私は保存しております)
この作品はたいへんな名作ですが、理解が困難な作品でもあります
中学の国語教師の大半が、まともに読めないままで、教科書会社の作成した教師用指導書に頼り、そこにある説明と設問、その解答をそのまま生徒に丸投げしているのが、現場の実情です
生徒が正しく理解できないのは無論、正しく読み考えることさえ難しいのも当然です
知恵袋には、教師に課された課題に困り、「正解」を求める質問が毎年、同じ時期に繰り返されます
多くの回答者は各々の考える「正解」を回答し、それが膨大に蓄積されています
私はそれらも熟知しています
その上でこの回答を書いています
【今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくいだけだ】という二文は、全体が難しいこの作品中でも難解な箇所です
それを【「希望は簡単には叶わない」という意味だ】という説明は、意味をよく理解していない者が、もっと理解していない者に教える説明です
比喩的に表現すれば、日本食をよく知らない者が、食べた事のない者に、「日本の味噌汁は、熱くて辛みとほのかな苦みのある豆のスープである」と説明するのに似ていると、私は思います
作品も問いも実はよく理解していない教師が、教師用指導書の問いを生徒に与え、生徒は「正解」だけを求めてネットで質問する、こうした教育のあり方がどれほど本来の教育から乖離しているか、私はそれに胸を痛めています
それが、私が知恵袋を閲覧し回答している動機になっています
あなたのご返信は私を落胆させました
しかし同時に私の回答を裏書きするものでもありました
この作品のルントウには「私」の思いを理解する余裕はありません
彼は日々の生活の重荷にあえぎ、「希望」を考える事などできません
「希望」では腹はふくれず、子どもを育てる足しにはならないからです
その現実に「私」が直面したのが、20年ぶりに帰ってきた「故郷」です
「私」はその驚きや悲しみ、絶望の中から「希望」を見出しました
それを描いたのがこの作品です
今のこの国の中学現場教師は皆、ルントウに近く「私」から遠い存在です
あなた方生徒の皆さんもおそらくは同様です
では、以下にあなたのお望みの「正解」の一例をお示ししましょう


私は「今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか」という言葉に共感します
日々の生活の重荷にあえぐルントウは、神仏に祈り、その御利益で少しでも楽になりたいと、「香炉と燭台」を望みました
私は20年ぶりに故郷に帰り、その厳しい現実に驚き悲しみ絶望し、「心が通い合い、互いに隔絶することのない」「新しい生活」ができる未来を「希望」しました
二人はともに「偶像」を必要とし、それにすがっている点では同じです
*しかし、大きな違いもあると思います
ルントウの「偶像」は、それに拝み祈る事で御利益を期待するだけの、あてにならないモノです
「私」の偶像は、強く願い努力することで少しづつ近付いて行ける「希望」です
そこに違いがあると思いました

以上は「〜手製の偶像にすぎない」=希望は簡単には叶わないという説明に基づいた回答です(*以降は省略可能です)
参考にして下されば幸いです