Q
向田邦子の随筆『字のない葉書』について質問です。
最後の文章「あれから三十一年。父は亡くなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のない葉書は、誰がどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない。」は筆者のどのような心情を表すのでしょうか。
・なぜ、だが、という逆接の接続詞を選んだのか?筆者はこの葉書を見たいと感じているのか?
・なぜどこに行ったかわからない?扱いが雑では
・見ていないから何なのか
・本当はこの後に何か文があったのでは?
・教科書的な答えを出すとしたら、葉書はなくなったがあのときのことを忘れることはない、と懐古しているのでは
・今まで葉書のことを思い出さずにいたほど、現在が平和ということでは
などなど様々な考えが出ましたが、意見がまとまりませんでした。(教育学部の言語系の4人で話していたので、ひねくれた考え多数です)
お遊び程度で考えたことなので、何の意見でも構いません。みなさまのお考えを聞かせていただけませんか?
A
【最後の文章「あれから三十一年。父は亡くなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のない葉書は、誰がどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない。」は筆者のどのような心情を表すのでしょうか?】
これがあなた方に与えられた問い、ではないかと思うのですが、それに対するみなさんの考えはまとまったのですか?
あなたが中3生であれば解説しますが、教育学部生ですからやめます
皆さんで考えられた方がよろしいかと思いますので
皆さんはこの作品、いったいどのように考えてみえるのでしょうか?
この作品はすでに中3国語の安定教材になっています
中学国語の作品は概してそうですが、中でもこの作品は説明が難しい作品だと私は考えています
最後のこのくだり、特に「だが」について、私自身は違和感を感じたことがありません
ここは「だが」が必要ですし、他の接続詞では代替不可能です
けれども、それを説明するのは、作品全体、特に父の泣いた理由を説明するよりも高度な課題です
そしてあなたが上に書いた皆さんの疑問を読むと、皆さんがこの作品を理解しているとは到底思えないのです
最後のくだりの意味(「だが」を含めて)を考える前に、作品全体の意味をとらえ直した方が良いと思います
皆さんはとうに理解できていて、蛇足かもしれませんが、一つだけ作品構造について指摘しておきます
最後のこのくだりは、いわゆる作品の額縁にあたります
時間で言うと、この作品は、回想される過去の思い出を中核にして、回想する現在がそれを包み込む額縁構造の作品です
中学国語では「少年の日の思い出」「トロッコ」が同じ構造を持ちますが、前者は前、後者は後ろだけの片額縁であるのに対し、この作品は両額縁で、最後のくだりは後ろの額縁にあたります
最後のこのくだりの働きは、語り手・書き手の現在地点を示す意味で重要です
「だが」は確かに唐突で、逆接の前後関係が全く分からず、論理的な説明は付きません
けれども違和感が不思議とないのです
【なぜ「だが」でつながれているのか、では説明は最初からつかない「だが」を、作者はなぜここで使い、しかも読者に違和感を与えずに、効果的でさえあるのか】、そう問い直すべきだと私は思います
そこまでいけば、あとは作品全体の主題を確定させることで、この「だが」の隠された前件も、最後のくだりが必要であった理由も、説明が可能となるかもしれません
「少年の日の思い出」は、後ろの額縁がありません
必要ではなかったからです
その理由を考え、この作品と比較することで、この作品における(特に後ろ、最後のくだりがそれであるところの)額縁の必要性が見えてくるかもしれません
実を言いますと、私には【筆者のどのような心情を表すのか?】という問題設定が疑問です
この設問の作成者がなぜ【最後のくだりで筆者は何らかの心情を表している(はずだ)】と考えたのか、その根拠を問いただしたい気がします
前提が誤っている問いに正しく答えることは誰にとっても不可能です
質問者からのお礼コメント
わからなかったです。私には違和感しかありませんでした。蛇足ですが実習でトラウマになった指導教官に言い方がそっくりです。