わがなつかしの君 | ぞうの みみこのブログ

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阿修羅
阿修羅


フィギュアといえば、アニメキャラクターのそれをいつも想像していた私、仏像 フィギュア ってのもあるのですね。初耳でした。
こういうのは、日本文化が好きな、非日本人の方にも楽しめそうでいいですね。不敬な言い方かもしれないけど、たとえ仏教徒でなくとも、インテリア仏像として楽しめそうです。

たまたま写真に載っていた阿修羅はわたしがまだ紅顔の美少女(?)だったかもしれないころ、わざわざ遠方に会いに行ったお方であります。いや、懐かしい、こんなところで再会できるとは。

現在の阿修羅様はもっと、渋い色合いに変化していますね。この写真のモデルでの色は、像が作られた当時の鮮やかな彩色を復元したものと思われます。提供先のサイトを訪問したら、私たちになじみの、古色蒼然とした色のモデルもありました。

で、キャッチコピーは、というと、”憂いを帯びた、天平の美少年” かっこいいですね。さすが、一番人気だそうです。でも本当の所、少年なのだろうか。わたしにはどっちかというと、両性具有に見えてしまう。

ニューヨーク出身の比較神話学者のジョセフ・キャンベル(Joseph Campbell 1904-1987)によると、
  
”中国や日本で、観音の像はしばしば女性として現されたり男性とされたりした。ーーー観音の(曼荼羅などでよく描かれるところの)涅槃の入り口での静止ポーズは、決して終わる事の無い静謐な永遠への没頭がおわるまで、先導して行く決意であり、

このことは永遠と時間の区別は理性の中だけに、力ずくで作られた物であって、これら相反するものを超越した精神においてはそういった区別は消滅してしまう。

ここで述べられている事は、時間と永遠はまったく同一の経験を全体から見た時の二つの局面であり、言葉では言い尽くせない、また非二元性の現象の二つの局面なのである。つまり永遠の宝石は蓮の生と死、どちらにも存在するのだ。om mani padme hum (チベット仏教の有名なお経の引用)" 

The hero with a thousand faces より。


阿修羅は観音様ではありませんが、仏教のそういった非二元論を体現して、少女にも少年にも見えるように作られたのかな、と思った次第でした。修羅といえば、宮沢賢治が“春と修羅”という有名な詩を残していますね。







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