一般的にDJといっても色々ある。
古くは曲の合間に簡単なしゃべりを入れる進行役で、
ディスク・ジョッキーといわれるDJ。
ミキサーやイコライザーなど音響機材を駆使しスクラッチをやるクラブDJ。
パパが中学生の頃やっていたのは、もちろんディスク・ジョッキーだ。
DJ番組をやるという一応の目標を達成し、そこそこに満足したパパは、
その後、ギターやピアノが弾くことのできる者を集めてバンドを結成した。
だが、パパはギターもピアノも弾くことができない。
漠然とドラムスをやってみたいという願望だけで仲間を集めた。
やったことのある打楽器といえば、小学校の頃のスネアドラムくらいだ。
ドラムはメンバーのお兄さんの所有だったが、
初めての練習では意外に上手く合わせることができた。
今思えば随分と無茶なことをしたものだ。
そんなこんなで、中学2年の時の卒業生を送る会でデビューした。
先生に目をつけられていた掟破りの中学生DJが、
今度はバンドなんぞをやるものだから、担任も気が気ではなかったようだ。
その後、学校では文化祭などの行事で数回演奏した。
学校にはエレクトーンしかなかったので、
ファズなどのギター用のエフェクターと繋いでギターアンプから音を出していた。
ハモンドオルガンほどの透明感はないが、結構ロック向きの音は出ていた。
コピーバンドで腕を上げてから、いよいよオリジナルという話になったところで、
高校受験を控え活動休止。
あの頃やった曲は、ディープ・パープルやチューリップのものが中心。
「スモーク・オン・ザ・ウォーター」というよりも、
スギちゃんがバイクに乗っているCMで流れている曲と言った方がいいか。
それから、「ハイウェイ・スター」、「ブラック・ナイト」など。
チューリップは人寄せ目的だった。
「心の旅」「銀の指輪」「青春の影」「魔法の黄色い靴」「夢中さ君に」など。
当時はバンドをやる連中は大人から冷ややかな目で見られていた時代だ。
「高校受験前にあんなことをやって・・・」などと陰口を叩かれたりしたものだから、
これで短いパパのバンド生活はおしまいを決め込んでそれなりに勉強もした。
高校はとりあえず志望校に入学し、勉強ひと筋を決め込んでいたのだが、
ある日突然1学年上の見ず知らずの先輩が教室にやって来た。
誰から聞いてやって来たのかは知らないが、
「ドラムやってくれないか?」と悪魔のささやきをしてくる。
「ドラムセットは持っていないから無理ですよ」と激しく抵抗したのだが、
楽器の調達は全部先輩がすることを条件にやむなく受諾。
だが、正直のところは、
「うちのコンサートは女の子がたくさん聞きに来るよ」が決め手だった。
かくして、軽音楽部に一応所属することになったが、普段は普通の高校生。
夏休みや文化祭の時だけ部活のために集まるいいかげんな集まりだった。
それでも、確かに観客は女子高校生ばかりだ。
ウソで塗り固められた先輩の数少ない真実だった。
このあたりから、パパの人生には邪心がチラつくようになる。
そこでは、クィーンやブラック・サバスという渋めのコピーをやった。
もっとも、一番楽しかったのは滅多にしない練習の合間のジャムセッションだ。
延々と30分くらいぶっ通しでやる。
興が乗ってくると、今まで一度もできなかった奏法が
突然できるようになったりするものだから、何とも不思議だ。
あの昂揚感は今でも忘れられない。
あれ以来、パパのアドリブたっぷりのフリースタイルな人生が始まった。
そして、大学進学となるわけだが、
パパはまたしても突拍子もないことを始める。