「和光同塵」の哲学
政治マターを扱う時、どうしても「批判」が中心となる。核ミサイルのボタンを押すことのできる米大統領が、世界で一番批判を浴びる人物でることは、世界の運命がかかっている以上、そこに「合理性」「必然性」があり、世論で「暴走」を牽制することは必要とされている。批判に正義が有り得る。
核を持たない日本の宰相であっても、最近ではLGBT法など『理念法』と称して、日本人の精神的規範そのものに影響を与える法律を日本人の大多数の承諾のないまま、哲学者でも宗教家でもない政治屋が立法するご時世。
ゆえに、自民党の総裁選など、批判的態度で接するのも自然の成り行き。
仏法真理的に、悪なるものに対しては「勇気ある批判と智慧を忘れるな。正語を弱さととらえるな。」とユートピア建設の観点から弱弱しき善人になることを戒める言葉もある。
このように自分の政治マターにおける「批判」をある程度必要なものとして考えているのだが、ひさしぶりに大川隆法総裁先生の「和光同塵」の哲学に接して、
刺さりまくりました。
総裁の語る言葉の懐の深さに、一言一言、刺さりまくりました。
脚下照顧
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野原洋子氏の投稿(埼玉県宮代町議員:幸福実現党公認)
「「ただただ強ければいい」というものではないのだということです。
本当に強くなってきたら、今度は「弱さ」が出てこなくてはいけません。
「柔らかさ」です。
柔らかさ、弱さが出てこなければいけないし、本当に賢かったら、今度は他人に対して優しくなければいけないのです。
本当に賢い人間であれば、ほかの人をつかまえて、
「ああ、あいつはバカだ」とか、「あいつは頭が悪い」とか、そういうことは言わないのです。
本当に賢い人は言わないのです。
ほかの人との知性の差は分かるので、その人の知性に合った話はするけれども、
「自分はあなたより賢い」というようなことは絶対に見せないように相手をして、いい気持ちにさせて帰すのが、
本当に賢い人のあるべき姿でしょう。そのようにならなければいけないのです。・・・
本当の意味で仕事ができたり、本当の意味で賢くなっていったりすれば、凡人と変わらないかのように俗塵に紛れることができます。
これを「和光同塵」といいます。
光を見せすぎずに塵のなかに紛れて一緒に生きていける、周りの人を刺激せずに普通の人のようになじんで、周りの人の空気を壊さずにいられるような境地が大事です。
そちらへ行けば、「名人」や「達人」の世界に入っていくのです。
強く見えたり、賢く見えたり、ものすごくできるように見えたりするうちは、まだまだ本物ではないのだということです。」