日本人の生真面目さゆえの懸念「児童養護」における国の方針 | 加納有輝彦

日本人の生真面目さゆえの懸念「児童養護」における国の方針

先々月、ある児童養護施設の施設長の方のお話を聞いた。

 児童養護施設とは、保護者による養育が困難な子供たちを預かる施設である。(原則18歳まで)

非常に興味深い話を聞いた。

 国の方針は、「集団養育から個別養育」が鮮明に打ち出され、児童養護施設で集団で養育する方向でなく、可能な限り、里親家庭とかで養育する、宿舎でなく暖かい家庭で個別に・・・という方向らしい。

 この方向性ゆえに、児童養護施設のスタッフなどが徐々に減っていく方向となる。増員とかは逆の方向となる。

 その施設長さんは、この国の方針に、非常に危惧しておられる。

それは日本人の国民性から、個別対応の方向は、里親さんたちの精神的負担に甚大な問題を惹起する可能性を孕んでいるというのである。

 施設長さんは自身のアメリカでの体験を語られた。
アメリカ人の里親が、そのような子供を家庭に受け入れたとする。そして受け入れた子供が気に入らない場合、簡単に「この子は、家で面倒見るのはムリ、お返しします。」というような判断がはっきりなされるというのである。

 中には、そのように複数の里親家庭から「捨てられる」子供もいるという。その心の傷は甚大である。

ところが、日本人の場合、そのようなドライな判断は出来ないという。仮に、この子は、我が家では無理と思っても、なかなか口に出せないのが日本人であるという。

 そのような受け入れ家庭がどうなるかというと、最悪、受け入れ家庭の崩壊、つまり離婚とか、そういうケースが見受けられるというのである。

 ところが、施設で集団的に面倒を見る場合、複数のスタッフで、いろいろ悩みを共有しながら、受け止めることができ、家庭において里親が、一人で受け止めるというようなプレッシャーが幾分緩和され、それが子供にとってもよいのだという。

 子供たちは、愛情に飢えており、全人格的にスタッフにぶつかってくるという。甘えを全人格的に表現してぶつかってくる。これを受け入れる方も、全人格的な勝負となる。

 両者の相性があえば、里親家庭も幸せなのだが、相性が合わない場合、悲劇が起きる。

施設の場合は、複数のスタッフで、協力しながら受け止めることができる。

 しかし、国の方針は揺るぎない。集団から個別へ。施設のスタッフの増員は困難。

 そして里親の方も、万一、相性が悪くても、アメリカ人のようにドライにそれを訴えることができず、家庭内に抱え込む。

 施設長さんは、この点を非常に憂慮されておられる。日本人の生真面目さゆえの問題である。

私は、施設長さんに聞きました。
「国は、その問題を認識していないのですか。」

「私は普段から訴えているのですが、なかなか理解してもらえません。」

日本は、戦後一度も憲法改正ができない、また脱炭素政策も、幸福実現党は、最初っから訴えていた、「脱炭素政策をやり過ぎると、電気代が高くなるばかりで、あげくの果てには停電が頻発、最悪ブラックアウトのリスクが高まりますよ」と。

 その通りになっているのに、国は舵を切れない。変更しない。

この日本人の硬直性はあらゆる分野で致命的。

過ちては改むるに憚ること勿れと孔子も言っているではないか。

受験秀才の官僚の無謬性など、誰も信じていない。
 
この点は、子供たちに愛を注ぎ、お母さんたちから絶大の支持を得た元明石市長の泉房穂(いずみふさほ)氏の爪の垢を煎じて飲んでもらいたいものだ。(私は普段、国のバラマキ政策を批判しているが、泉氏の地方行政における子育て支援への徹底した予算配分「バラマキ配分」については勉強中です。)

 

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