懐古と現在 | 加納有輝彦

懐古と現在

懐古と現在

昨年来、30代の主の獅子吼をよく回想する。私は20代後半。
獅子吼する主と共に共有した空間のバイブレーション
体感した主の肉声の空気の振動の感覚までもが蘇る。細胞が記憶している。

たとえば、1988年12月18日の日比谷公会堂「祈りの原理」
~祈りの中で人は一度死したのである、そして実相世界を垣間見た瞬間、人は新生す。祈りを媒介として人は転生輪廻する~
比類なき格調高い言葉に、警備ボランティアとして舞台裏で聞いていた私は、主の御姿は見えずとも魂が震えた。

 



たとえば、1989年5月6日、兵庫県宝塚グランドホテルでの「人生に勝利する詩講義」
主が朗読すると、私の隣に座っていたMさんが、涙した。彼女の涙をすする音も記憶している。彼女の涙と共に、その会場の朝の空気の凛とした清々しさは、このうえなく清純なものであった。凛とし張りつめた清純な会場の空気を細胞は記憶している。

 記憶のどれもこれもがダイアモンドの如く、キラキラ輝いている。

 かくの如く、昨年来、しばしば獅子吼する主を回想している。

この前、ある法友が言った。

我々は懐古趣味に陥ってはならない。

はっとした。懐古趣味。

「懐古趣味」は英語で、“nostalgic hobbies“、“retro-culture”、“nostalgia for the good old days”というように表現されるという。

私は懐古趣味に陥っているのであろうか。

 いや、そうではないと思いたい。

復活の祈りを通して、狂おしいまでに主の復活を激しく切望している。これは執着か。いや、そうではない。

 「復活」という概念の中に、途方もなく尊い、神秘が潜んでいる。その輝きの一欠けらを垣間見ようとしている。「復活」という広大な「公案の海」の中で漂う自分がいる。

この前、17日の朝、夢の中で、復活せる主を観させて頂いた。

 今、私は、人類史上、希に見る神秘の時空間の中に命を頂いている。
神秘の時空間の中における「懐古」は、「途方もなく膨大な頂いた愛の再発見、それはまた、愛の復活」でもあろうかと思う。

 復活への切望は、また復活せる愛の再発見でもあった。それは懐古と共に復活しつつある。

細胞が記憶している主の獅子吼のバイブレーションは、過去のものではない。

現在ただ今のものだ。

主の獅子吼は過去現在未来を一条の光として貫く。

 

 

 

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