陰謀論を乗り越える眼差し | 加納有輝彦

陰謀論を乗り越える眼差し

陰謀論を乗り越える眼差し

ささやかなレビュー
「優しい日本人が気づかない残酷な世界の本音~移民・難民で苦しむ欧州から、宇露戦争、ハマス奇襲まで」(川口マーン恵美×福井義高)

 
 川口マーン恵美ファンの小生として、いつもの通り期待を裏切らない内容だった。というか、あまり知らない東欧の人々の歴史が培った彼らの「感性」の説明が、実に刺激的であった。

 欧州の歴史に詳しい博識な福井氏との掛け合いが、相乗効果を発揮し、かつて渡部昇一氏の著作を読んだ時のような知的興奮を久々に幾分味わえた感がある。

 特に印象に残った点として、ソ連崩壊まで、共産主義体制を実際に体験した東欧の人々にとって、昨今のいわゆる西側のリベラルな政治体制(民主党政権下のアメリカに代表されるような、あるいは、EUの体制に代表されるような)に、かつて共産主義体制で味わった全体主義の匂いを敏感に嗅ぎ取り、決して、わが国の岸田総理の如く、西側リベラル体制に盲従することはないということ。
 LGBTQの権利拡大を目指すようなリベラル派のいう自由に懐疑的であるということ。
括弧つきの「自由」に共産主義的全体主義を見ている。

 例えば、EU内の嫌われ者ハンガリーのように。

これは非常に面白い論点であった。とかく、東欧に対して西側リベラル派は下に見る傾向があるが、そのようなステレオタイプ(常識?)が兜割りされる「知的爽快感」がある。

東欧の人々が、「正見」をしているかもしれないのだ。西側リベラルが「邪見」をしているのかもしれない。

 岸田総理の「西側リベラルへの盲従ぶり」に川口氏は、警鐘を鳴らし続けておられるが、福井氏は、岸田日本ののらりくらり盲従ぶりが、実は、日本を守る戦略である可能性があるという。本人に自覚はなかろうが。

 この福井氏の見解に、川口氏は、懐疑的であったが、対談を進めていく中で、福井氏のジョークにも見える見解に対する懐疑が、どんでん返しをくらう。これは読み物としても面白かった。それは読んでのお楽しみ。

 さて、最後に。
いわゆる「陰謀論」。
 ここ数年、識者が討論番組などで発言する際に「枕詞」となった感がある「こういうと陰謀論と言われるかもしれませんが・・・。」との前置き。

 このように識者が、陰謀論とレッテル貼をされる事に非常に敏感となっている。
実際、「陰謀論」とレッテル貼され、一部から批判を受け軽蔑される識者もいる。

 川口マーン恵美氏は、このような前置きをする必要がない。彼女が、いわゆる「陰謀論」と言われるような内容を語ったとしても(実際彼女は、アンチ・グローバリズムである。)
一般論として「それは陰謀論だ!」というような批判を惹起することがない。安定感がある。

 その理由を私なりに、いろいろ考えてはきた。

本書を読むことによって、その理由がはっきり分かったような気がした。

 彼女には「正見」がある。イデオロギーという色眼鏡を彼女はかけていない。色眼鏡なしで、かつ、歴史への深い洞察がある。「愛」がある。生活者への「愛」がある。

 人は抽象的に人を糾弾し憎むことができる。
しかし、人に固有名詞を付けると、その人にまるわる歴史風景、人間関係等々、具体的な眼差しが生れ、そうそう簡単に糾弾し、憎むことはできない。むしろ、理解がすすめばすすむほど、愛が生れて来る。同時に、不義にたいする「正義」の感覚も研ぎ澄まされてくる。

 川口さんには、イデオロギーに洗脳されていない歴史観がある。
具体的な一人一人、生きている人間への眼差しがある。
 イデオロギーで抽象的に人間を捉えてはいない。
すなわち具体的個人に対する眼差しの上で、政治、政策を語っておられる。

 ゆえにこそ、例えば、ドイツの緑の党など、リベラル指導者の「欺瞞」「インチキ」が油が水に浮かぶように、自然と炙り出される。
 
 陰謀論と同じような論点を語っても、陰謀論にならない「正見」がある。
これは、あくまで私の個人的見解にすぎないが、ますます川口ファンになってしまった。

 

 


 

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