イエスと天皇 | 加納有輝彦

イエスと天皇

 

イエスと天皇

 

さて、水島社長は、しばしば自らの天皇観を吐露する。

以前にも書いたのだが、昨日投稿した件の討論でも再び言及された。

 

それは遠藤周作が描くイエスと、水島社長の天皇観が重なるのだと言うこと。

 

 

 ~遠藤周作の「沈黙」に描かれたイエスは、天皇のお姿そのものではないか。

 

ただただ人々に寄り添う同伴者イエスは、天皇そのもののお姿ではないか。~

 

 そこに奇跡はない。祈りと沈黙があるのみ。

 

 災害の絶えなかった平成の御代、天皇皇后両陛下は、ただただ国民に寄り添われた。

被災した国民の多くは、涙と共に再起を誓った。

 

 水島社長はゆえに言う。絶対神を私は受け入れられないと。

自身の天皇観から、受け入れられないと。

 

遠藤周作氏の奇跡を起こせない無力な「同伴者イエス」像に共感を覚える人にとっては、「神々の沈黙」こそ、答えであって、「神々の饒舌」その延長線上の「霊言」、そして「奇跡を起こす神」は受け入れ難いということになる。

 

 驚くべきことに、大川隆法総裁がローマ教皇フランシスコ守護霊の霊言の収録時、遠藤周作氏がわざわざ割り込んで語った。

 

「神は沈黙しなきゃいけない」と。

「神は小説家のフィクションなんだ」と。

 

驚くべき発言である。

 

そこに、狐狸庵閑話(こりゃいかんわ)を軽妙に語った生前のユーモアは影を潜めていた。

 

ある意味、水島氏は、遠藤氏のインスピレーションを正確に受け取っていたと言えるのかもしれない。

 

 答えのない祈りもある。しかし、答えのある祈りもある。

 

復活の祈りの中にいる私達からすれば、大変生意気な言い方になり恐縮でありますが、遠藤氏のように「谷間(saviour降臨とsaviour降臨の間の時代)」に生きた信仰者には理解し得ない「祈り」の神秘を現在只今体験させて頂いている。

 

畢竟、奇跡の起きない祈りはあり得ないのである。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 政治ブログ 保守へ
にほんブログ村

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

 


政治ランキング



エッセイ・随筆ランキング