自由と規律 VS 自由が規律 | 加納有輝彦

自由と規律 VS 自由が規律

夏目漱石が孤独な英国留学をした20年後、多感な17歳の池田潔(イギリス文学者1903~1990)は、1920年、上流階級の子弟のみが入れる英国パブリックスクール(リース校)に留学した。

その経験を未だ敗戦後の混乱期であった1949年、『自由と規律 ~イギリスの学校生活~』と題して、岩波新書から発刊、英国流の民主主義精神を説いた随想で、今日に至るまでロングセラーとなっている。(100刷り以上)

パブリック・スクールでの学校生活は、粗末な食事が一日2回のみで、冷暖房もない過酷な生活環境の中で、ラグビーで体を鍛錬し、徹底的に誇り高き紳士の責任、ノーブルズ・オブリージュ noblesse obligeが叩き込まれる。

およそ自由とはかけ離れたような団体生活。 
校長、舎監、監督生という絶対的なヒエラルヒーと厳格な規律の下、寮生活を送る。自由が放縦を生むことなく、上流階級の自由と責任が探究忠言された。

『(精神の)自由が確保されるためには、私情を捨てて正しい判断を下す勇気、面子を捨てて正しい判断に服す勇気が必要であり、これらを学び、養い育てる場として、パブリック・スクールの一種過酷な、「地獄」とも形容されるような日々に意義を認めており、それが当時の多くの英国民(庶民階級を含む)に支持されていることが述べられている。』(アマゾン・レビューを引用)

 私が学生の時、英語のテキストが、英国のパブリック・スクールの教育システムを紹介するものだったので、英国紳士の伝統の概要を理解しているつもりである。そもそも彼ら上流階級の話す英語の発音からして、庶民が話す英語と違うなど、英国貴族の誇りを仰ぎ見たのであった。

さて、ベストセラー、ロングセラー作品には、批判も付き物である。

 何事も、表と裏がある。表の西洋と、裏の西洋がある。

表の西洋は池田潔の『自由と規律―イギリスの学校生活』であり、
裏の西洋が会田雄次の『アーロン収容所―西洋ヒューマニズムの限界』だという批判。

後著では、日本人(日本兵)などは、イエローモンキー、猿であって、イギリスの女性兵士は(猿の前で)平気で裸になる。
英国の奴隷貿易、過酷な植民地支配も視野に入れる必要があるという。

 また、ある学者は、そもそもタイトルの「自由と規律」が概念的に間違っていると主張した。

「自由が規律」なのだと。

 私は、長年、「自由と規律」VS「自由が規律」、この二つの概念が気になっていた。

幸福の科学、大川隆法総裁の下で、30年以上学んで、両方とも正しいと思いますが、究極的には、「自由が規律」なのかなと、そんな風に、思いつつある・・・。へりくつをこね回しているような気もいたしますが、昨今のロシア・ウクライナ戦争、イスラエル・ハマスの戦闘を見るにつけ、「自由と規律」により皮相的に神仏への自由が制限されるとしたら、やはり「神仏への自由が規律」なのだと。

 う~ん、屁理屈か。呵々。

最後に、清く正しく美しくを標榜する宝塚歌劇団の劇団員を死に追いやった「パワハラ」が問題になっているが、パブリック・スクールでの絶対的上下のヒエラルキー下の教育における「パワハラ」問題はないのか、興味のあるところである。

 

 

 

 

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