うち と そと ~その昔、グレゴリー・クラーク氏の講演から~
うち と そと
その昔、グレゴリー・クラーク氏の講演を聴いて、面白い論点があった。
♦日本人の外国人への排他度 40
日本人の多文化への排他度 10
♦アメリカ人の外国人への排他度 10
アメリカ人の多文化への排他度 30
♦フランス人の外国人への排他度 10
フランス人の多文化への排他度 90
♦中国人の外国人への排他度 30
中国人の多文化への排他度 70
40年以上前の講演。いま、移民問題で苦労しているフランスなどは、外国人への排他度が変わっているかもしれない。
注目すべきは、日本人の外国人への排他度が非常に高いこと。
グレゴリー・クラーク氏は、当時、面白い論点を開陳された。
日本人にとって、外国人というのは、青い目の外国人だけでないというのである。
日本人は、ある条件下で同じ日本人に対しても「外国人」の如く排他的になるというのだ。
日本人の村意識、単一組織の、内の論理である。
うち と そと
日本人にとって、「そと」の存在は、同じ日本人でも、外国人の如く、排他的になるという。
しかし、ひとたび「うち」の存在になると、犬がはらを見せてくつろぐように、安心できる仲間となる。
さて、現代においては、テレビでよく見るタレントや、ネットでよく交流する人は、お馴染みの存在、「うち」なる存在、仲間と認識される。
しかし、隣に住む人であっても、没交渉の人は、「そと」の人である。地理的距離感は関係ない。
この文脈で、私は、今起こっている「日本保守党」現象は、説明できる要素があるのではないかと思うのである。
それは、百田尚樹氏、有本香氏の両氏のネット上での膨大な発信である。
両氏は、毎朝ネットの番組「あさ8」で8時から10時まで、しゃべりづめ。
おまけに両氏は、個々人でもチャンネルを持ち、積極的にライブ発信をしておられる。
それらのチャンネルの再生回数は、毎回何十万レベルである。
例えば、高橋洋一氏などは、チャンネルの登録者数が、百万人を超えている。とてつもない数字だ。
百田尚樹氏、有本香氏の「あさ8」など、リアルタイムで繋がって見ている人は、5万人とか、東京ドーム一杯の人が視聴している。
居眠りしている学生もいるであろう、何十人かを相手に講義している東大の教授が、最近、日本保守党をディスっているという。
天下の東大の教授が、珍しくXで、ディスっている。嫉妬なのだろうか。片や、数十万人、片や、数十人。
百田、有本、両氏の掛け合いは、時事問題に関し、熊さん八っつぁん的な井戸端会議みたいなところもあり、聴いている方は、毎朝、毎朝、井戸端会議の輪の中に入っているようで、「ほんと、その通り、そうだ、そうだ!」みたいに、井戸端会議の輪の中、すなわち「うち」に入るのである。
ひとたび「うち」意識が形成されれば、その仲間意識、紐帯は、非常に強いものになり得る。
隣に住む人は、「そと」のひと。
ネットで繋がっている人は、「うち」の人。
ゆえに、日本保守党が街宣活動をすれば、みな、毎日毎日井戸端会議の輪のうちの人、数十万人のうち、いくらかの人が参加するだけでも梅田駅前に前代未聞の人が結集することになる。
政治思想で集まっている部分もあろうが、うちの大将、うちの姉さんの街宣に集っている感じもあると思うのである。
深い普遍的政治思想を語らずとも、例えば、有本香氏の「トランス・ジェンダーの自称女と称するなら、男が女風呂にはいってきたら、女性が、どんなにか嫌な思いを持つのか分かるでしょう。その気持ちも分からずして、どうして自称女なの?おかしいじゃない。」みたいな多くの人が納得する論点を積み上げていき、姉さんの言う通り!みたいなシンパがどんどん増えていく。
百田尚樹氏は、「稲田朋美、古屋圭司、LGBT法なんて作りやがって、ふざけんな。」みたいな原稿棒読みの対極の「べらんめえ」調の言葉を連発して、視聴者の不満を昇華させるカタルシスとなっている。
このような文脈で、宗教政党、幸福実現党は、多くの日本人にとって、未だ「そと」の存在なんだなと思う。うちなる仲間にはまだ入れてもらえない。(笑)
上求菩提下化衆生の現代的変容が求められているのだろうか。
※流行り神に潜む「邪」なるものに関する考察は別途いたします。