宗教という違和感 | 加納有輝彦

宗教という違和感

 一連のオウム死刑執行に関わる報道に接して、またぞろ、「宗教は危うきもの」「君子危うきに近寄らず・・・転じて、常識人は宗教なんてものに近づいてかぶれては断じてなりませぬ。道を誤ること必須、御覧なさい、高学歴な若者たちがあのような犯罪を犯して・・・」

 

 1995年以前は、高学歴信者という存在は、プラスの評価もあり得たと思うのですが、1995年以降は、すっかり様相が変わって、勉強しすぎるのも考えもの、頭のいい人は怖いねえ、あんな事になっちゃう・・・。

 

 誠に、宗教受難の時代となった。ただでさえ戦後日本は国家神道を遠ざけて、それが一般化し、教育の場、特に「公」の場から宗教は一掃された。

 

 ただ、実際、宗教、宗教人は、あらゆる分野で落ちこぼれてきた事も事実。

 

 高名な僧侶と新聞記者の対談などで、あきらかに新聞記者の知的水準の方が勝っているというような状況がしばしば見られたという。

 

 新幹線が故障したって、イエス様でも修理できない。

 

専門分野で、その道の「神々」が仕事をしている。

 

 こんな時代に、従来の宗教の果たせる役割は、たしかに「葬式」「法事」「寺社仏閣の営繕」「駐車場経営」・・・

 

 宗教者の説法で、人々の魂を揺り動かすというような事は、「知的水準の高い専門家という神々」を前にして、そうそう出来たもんじゃない。

 

 かような文脈において、私が信仰する幸福の科学は、もはや従来のカテゴリーでいうことろの「宗教」をとっくに超越してしまっている。

 大川隆法総裁は、説法自由自在、経営から政治、宗教、科学、芸術、教育・・・宇宙論まで・・・まさに八万四千の法門。

 

 従来の宗教を超越した宗教なのであります。一宗一派というカテゴリーに抑え込もうと日本のマスコミ、政府は、頑張っていますが、それは土台無理な話。

 

 フェア―な外国人の方が、フェアーに評価し、舶来志向の日本人に逆輸入されるなんて事も充分あり得ます。

 

 映画などの世界で、そういう現象が瞬時に世界規模で起ることもあり得ると思います。

 

・・・・・・・・

 

 よって、通常の宗教に対しては、私も「君子危うきに近寄らず」は、全く同感なのであります。

 

 ただし、最近特に思う事は、一定の人々にとって、伝統的宗教に心地よい居場所を見出しているということ。宗教に、先進的なものを必ずしも求めていないということ。

 

 これらの多様性も認めること、すなわち「寛容さ」も幸福の科学の大切な眼目であります。

 

 

にほんブログ村 政治ブログ 保守へ
にほんブログ村