政治家と言葉 ~稲田朋美氏辞任考~ | 加納有輝彦

政治家と言葉 ~稲田朋美氏辞任考~

  2010年秋、時は菅政権。

 尖閣沖中国漁船衝突事件等が勃発した時期であった。

 当時野党の立場であった稲田朋美議員の菅政権に対する国会質問は、まさに舌鋒火を噴き保守層のおじさま方を魅了して余りある「国家主権を護るの気概を示す大演説」であった。

 

 今回の稲田氏の防衛相辞任に際して、マスコミも当時の稲田氏の国会質問の映像を用いて「攻めは強いが守りは弱い」と現在の稲田氏との大きなギャップを説明した。

 

 振り返れば、稲田氏が党の政調会長に抜擢されテレビ討論などに党を代表して出演され始めたあたりから、稲田氏は完全に守りに入った。マスコミから絶対に揚げ足を取られないように一言一句を慎重に選び選びして、徐々に繰り返しが多くなり、さらに質問に真正面から相対することを避け、つまり質問にまともに答えない場面も増えた。

 稲田氏の顔からは表情が消え、言葉が死んでいった。野党時代の殿方を魅了した「雄弁」はその姿を完全に消したのである。防衛相になってからは、まさしく防戦一方で言葉は死しミイラ化したようだ。

 

 稲田氏は、言葉がとっくに死を迎えていたのである。現象が言葉の死を後追いしなぞったに過ぎない。

防衛相辞任に先立ち、とっくに言葉が死んでいたのである。

 

 いま、国務大臣の失言のオンパレードである。昨日も「官僚の原稿を棒読み」云々で話題になっていた。

 

 この状況に、政治家は、国務大臣は、一切口を閉ざしていくであろう。物言えば唇寒しである。

 

 政治家にとって言葉は命である。マスコミが日常の一言一句の失言を許さない24時間チェック体制の中で、政治家が言葉を失っていけば、それすなわち政治の死である。

 

 このようなマスコミ24時間監視体制の中で、それでも生きた言葉を紡ぎだせるか否か。突破する丹力あるや否や。

 

 もはや、一人の人間の言葉では太刀打ちできないのかもしれない。一般的にいえば「深い教養と広範な専門知識」が必要とされる。細かく専門分化され法律の数も半端ない。

 

 それでも政治家は生きた言葉を紡ぎださなければならない。

 

神託が政治に重きをなした歴史もある。現代人は、逆説的に人間の言葉はもはや信用できないのかもしれない。智慧の根源としての「仏神」の言葉を、最期の言葉として待っているのかもしれない。

 

 幸福実現党の政策のいずる元は「仏神の言葉」である。その歴史的使命は忘れてはならないと肝に銘ずる次第である。

 

 

 

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