竹中平蔵VS榊原英資 | 加納有輝彦

竹中平蔵VS榊原英資

 この前のテレ朝;サンデープロジェクトで、竹中平蔵氏と榊原英資氏、両氏が議論を交わした。短い時間の議論だったが、両氏の根本思想の違いが浮き彫りになり面白かった。
ご存知、竹中氏は小泉政権の構造改革のブレーンであった。一方、榊原氏は、政権交代を訴え小沢一郎と対談しそれを本にするなど民主党の支持者でありブレーンである。

 お二人の議論のポイント

 竹中氏は自由に重きを置いている。榊原氏は、格差をなくすという平等に重きを置いている。
榊原氏の理想は、ヨーロッパ型福祉社会、特にフランスを理想としているようだ。

 竹中氏は、日本は、さらに高い山を登るべきと考える。(坂の上の雲の如くに)
榊原氏は、もう日本に成長は望めないとし、生活の質を上げるべく福祉社会に移行すべきと考える。

 竹中氏は、若者には志(成長への志)が必要と考える。そのために教育が大切という。
榊原氏は成長から成熟という時代の方向の中で、若者は新しいポスト近代の目標を持ったとし若者の現状にそれほどネガティブではない。

 竹中氏は、幸福の追求は、各自が自由な選択のできる自由な社会の中で、各自が追求するものであるとする。政治は、豊かで自由な環境を提供するのが任務と考える。
榊原氏は、ポスト近代の幸福は、アメリカ型格差社会からヨーロッパ型福祉社会へ移行することだとする。

 竹中氏は、労働は、人のために役に立つことという。
榊原氏は、労働は、ポスト近代の価値観の「量、マス」から脱却し、格差をなくし質を高めることだという。量から質への転換を国が援助するべきという。


 ポスト近代(モダン)というが、それはなんだ。
別のゲストであった水野和夫氏(三菱UFJ証券)は、榊原氏の賛同者だが、こう説明した。

「坂の上の雲とは、近代社会を駆け上がるということだと思う。それは成長社会を駆け上がっていくこと。次の成熟社会に切り替える、坂の上の雲をやるんじゃなくて、リア王とかハムレットをやる。中世社会から近代社会に変わる時、神様中心の社会から人間中心の社会へ変わった。16世紀、ルネサンス。 今の日本、違う山に登るということはもう近代の価値観じゃない。ポスト近代。
 近代というのは大きな物語で、‘70後半にもう終わっている。ポスト近代には信じる大きな物語がないわけですから、それぞれが小さな物語を考えるか、あるいは大きな物語を信じていけば成長なんですけど、もう成長はないわけですから、、。」

 さらにこう言った。
「若い人の方が近代の価値観を卒業している。若い人は、車の免許を取らない。海外旅行をしない。車というのはより遠く、より早く、近代の価値観そのもの。海外旅行は、未知なる世界を求めている。もう若い人は、未知なるものを求めていくという価値観は、もう知り尽くしている。人より早く行ってどうするんだ。(新しい)彼らによって日本の将来変わってくる。」

 竹中氏はこう反論した。
「ポストモダンとかいう議論はもう20年前から行われている。(苦笑)早くいくということがいいことかどうか?という議論、それぞれが選べばいい。早く行きたい人は早くいける自由があること、遅く行きたい人は、遅く行けばいい。そういう自由がある社会を作ることが私たちの仕事。」



 まあ、私は竹中氏の意見に賛同したい。宇宙開発みたいなそういう夢を持つ人もいる。一方で、エデンに還れ、帰農する人もいる。それぞれがその人の信ずる道を歩める、そういう自由な社会がいいはずだ。車の免許を取らないことが、ポスト近代の精神の発露といわれても、そんなの思想の遊びじゃないか。
 榊原氏も、水野氏もさかんにポスト近代、ポスト近代と言って、彼らの思想を押し付けているような気がする。その押し付けている思想とは、

 もう日本社会は発展しない。生活の質を高めるべき。福祉社会に移行すべきというもの。
皆が皆、国に面倒みて下さいって思っているわけじゃない。独立不羈の精神で、坂の上の雲を目指してチャレンジする若者だっているはず!

 結論   自分たちが元気がなくなってきたからといって、日本も同じだと決めつけてほしくない。
余分なおせっかいは不要。自由と独立不羈の精神こそ、我ら真正・保守の心意気です(^.^)