プール | いつか大きくなるあなたへ           ~シングルファーザー奮闘中~

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ハルカへ


 昨日は習い事のプールの日。あなたは毎週楽しみにいっています。

パパが小さい頃にくらべたら、学校でのプールの時間が全然ありません。

あれじゃあきっと泳げるようにならないだろうなあというほどの時間。

泳げないと、あとあと楽しみも減るだろうなあと思って、通わせたのですが、すっかりはまったようです。

思えば保育園のときから、水物はダイスキで、時間を忘れて泳いでいました。

夏休みの旅行にいけば、何時間でも水で遊んで。

いつかきれいな海につれていきたいと思っています。




【母性本能講座②】



つかさんは雑誌の取材で、1998年に長崎の諫早で起きた、母親が、愛人と共謀して実の息子に保険金をかけて、殺したという事件を調べにいったことがありました。

 実際に殺害が行われた諫早の現場、その周辺の飲食店、殺害した母親の生家、子どもたちと暮らした家の近辺など現場をたどっていく中で、つかさんが行き着いたのが、あるコンビニエンスストアでした。

 現場から程遠くない、そのお店で、つかさんが聞いたのは、子どもたちを手にかけるその日、そのコンビニエンスストアで母親が「豚まん」を買って、子どもたちに与えたという事実でした。

 つかさんはそのとき言っていました。

「おまえよお、最後の晩餐だぞ。いくら邪魔になったからといって、十月十日、お腹の中に授かって苦しんで生まれた命だぞ。最後くらいは、子どもの好きなもの、ファミレスのハンバーグでも回転寿司でもいいよ。子どもが好きなものを食べさせてあげるものだろう。それが、最後の晩餐が『豚まん』。そりゃねえよなあ」

 そもそも、この母親はその6年前に夫を殺害していました。そのときも愛人の存在が絡んでいました。その後、内縁の夫として居座った愛人から暴力を常にうけていたということで、子育てどころか、その暴力に疲れ果てていたのかもしれません。愛人のいいなりになったのでしょう。子どもに保険金をかけて大金を手に入れるというのも男の指図だったのかもしれません。どんな理由があったにせよ、子どもを殺めるなんて……。

 つかさんは、最後くらい、せめて最後くらい、子どものことを思ってあげることはできなかったのかと、そのさみしさを嘆いていました。

 この事件をきっかけに、2000年に実の娘を殺害しようとした奈良の看護師長女毒殺未遂事件やパチンコをしに子どもを車の中に放置して死なせてしまった多くの事件など様々な母親が子どもを死にいたらしめた事件を調べていきました。

「母性なんてもんはないもんだという風に疑ってかからないといけないんじゃねえか。そもそも母性なんてもんはなくて、後から植えつけたもんなんじゃねえかって。子どももよお、三人生まれたら一人は殺されるという覚悟で生まれないといけない世の中になったんじゃねえのか。区や市が『母性養成講座』でも開いて、『かつて、母性というものがあったんです』というところから教えなくちゃいけないんじゃねえのか」

 とつかさんは嘆いていました。

 20世紀末のことです。

 いま21世紀となり、子どもを置き去りにしたり、餓死させたり、殴り殺したりが毎日のように報じられるようになりました。あのときのつかさんの言葉がいまこそ心に突き刺さってきます。

 2010年には幼児を家に放置したまま餓死させたキャバクラ嬢が罪に問われました。

 真剣に怒ってくれる人に育てられずに、加減をしらない子どもたちが大人になり、加減をしらないままに子どもを見失う時代。

 本当に『母性養成講座』は必要なのかもしれません。

 つかさんのあのときのメッセージはいま、誰もが口にする言葉となりました。


 1995年 時代はオウム真理教の虚飾がはがれだしてきたころ。新興宗教の脅威とエリート集団がなぜ、あの宗教にはまってしまったのかということの検証に躍起になっていました。

 つかさんも何度もあの麻原に言及した作品を書こうと試みていたのです。

「どう考えてもあれだけのエリートたちを束ねて、神様となるんだからよお。そりゃ悪い方向かもしれないけど、麻原にはなにかがあるに違いないんだよ。それをオレらは文学で解明しなくちゃいけねえんだよなあ」

 と話し考え続けてきました。

「なんだと思う」

「いやあ、わからないですねえ」

「そうだよなあ、オレらみたいな尋常な考え方、やり方じゃねえんだよ。おまえも考えろ」

「はい」

 しばらくしたある朝、つかさんから一枚のファックスが届きました。

「たとえば

 麻原……

歯を磨かない」

 殴り書かれたその文章を見たとき、パパはこれをどう受け止めていいのかと戸惑ったのを覚えています。

 そんな発想でよかったのかしら……それとも深いなにかがあるのかしら……。

 答えはいまもってわからないままです。

 そんな奇想天外で、突拍子もない発想をつきつけてくるつかさんに、必死にしがみついて、勉強させてもらっていました。

 大分にいた当時、パパは事務所兼マンションに住んでいましたので、つかさんが大分にいる間は常にそんな勉強をしているような状態でした。

 前にも書いたように、先生は当時から、長い睡眠時間をとることができずに、3時間寝ては3時間起きて仕事をして、また3時間寝てという日々を送っていました。

 またつかさんは書いた文字を活字化しないと、客観視できないので、手書きで書き込みをいれた原稿をワープロうちさせて、そこにさらに書き込んでということを何度も何度も繰り返していきました。

 東京にいても、大分にいても、どこにいてもそのペースはかわりません。起きている間はなにかしら物を考えて、思いついたら書きつけるというふうに、常に仕事をし続けていました。当然、そのワープロ打ちをすぐに、自分の発想の火が消えるまえに、誰かにやらせたい。それは当然、東京にいるときも大分にいるときもかわりがありませんでした。だからつかさんは、いつでも自分の原稿をワープロうちしてくれる人間を探していました。

 夜中は東京の事務所に誰もいない。

 大分は夕方の七時から11時くらいの稽古時間をのぞけば、パパが事務所にいる。

 よし、24時間稼動するところがあるというわけだな。

 ということで、つかさんが大分にいるときはもちろん、パパも一緒に起きて作業をし、東京にいたときは、つかさんが起きている3時間で原稿を書き、睡眠中の3時間を利用して、100枚以上の原稿を1、2時間かけてファックスで大分の事務所に送ってきました。

 いまならメールがありますが、当時はファックスが唯一の手段でした。

 パパがそれを打ち込んで、またその原稿を1、2時間かけて送り返す。ということをやっているとつかさんが起きて、仕事をはじめる時間となり、また睡眠に入るタイミングでファックスを送ってきます。

 それを繰り返すうちに、パパの睡眠時間はまったくなくなってしまいました。

 当時は芝居と小説、4本くらいを同時進行で書いていました。

 パパがワープロうちから解放されるのは、稽古場にいくときという日々でした。

 稽古から帰ってきたら、ファックス機には大量に仕事が……。

 人生の中で一番、アクティブにワープロを打ち続けた日々でした。

 若いうちに、あれだけの作業ができたことは、大きな財産でした。たいていのことはあのときのことを思い出せば、乗り越えられそうな気がします。

 どんな経験も決してムダになることはありません。

 ただ思うのは、そういうパパよりも、あの時期常に頭の中には原稿のことがあって、休むヒマなく働き続けていたつかさんの強靭な意志のことです。

 働かなくては、考えなくては、常にそうやって自分自身を追い詰めて20代から亡くなるまで走り続けてきた生き急いでいるかのように。

 そんなつかさんの本当に微々たる力にしかなれなかった自分が不甲斐なく思えてなりません。

いま自分はあれだけのことを考え、ひとつのことにのめりこみ、寝ている間ですら夢に出るほどまでに働くことができているか。

 そしてその仕事に誇りをもって、働くことができているか。

 常に振り返っています。

 高度経済成長を乗り越え、社会をかえていこうと戦い、バブルを経てという中で常に働き続けてきたつかさんの世代の方々。つかさんはその中でも文化の面で日本を牽引してきました。そこには止まることを決して許さない自分自身に対する厳しさがあったのです。 

 パパはそんなつかさんに追いつきたいと、一生懸命走り続けたいと思っています。