さらにパワーアップ | いつか大きくなるあなたへ           ~シングルファーザー奮闘中~

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シンブルファザーとなってはや5年
娘と一緒に楽しくも格闘しながら
毎日を送っています

はるかへ


さらにパワーアップして昨日はどろんこになって帰ってきました。いつもはイヤがる、帰ってきたらすぐシャワーも率先して入り、靴は真っ黒。毎日あそこにいくとなると、クツが何足必要だ? と思うほどでした。昨日はどうも水浴びをしたらしく、また、その後秘密基地作りに励んでいたようです。服はもろとも、もっていったカバンまでが砂まみれになっていました。

なかなかいい感じに盛り上がっています。





【味ごときもの】




「なかなかうまく書けないなあ」

 入学のために買った学習机に向かっておまえは、頭をひねらせています。パパは引っ越してから決して裕福ではない生活の中で、子ども部屋ひとつ与えてあげられません。

 だから、机が来たときは、はじめて自分の居場所ができたように飛びついて、机に向かいっぱなしになりましたね。勉強も楽しんでやって、夏休みの宿題も誰よりも早く終わらせていました。でも、途中で人に見られたりすることが恥ずかしいのか、パパが覗き込むと、ガバッと覆いかぶさって隠します。そういうところはパパにそっくりだなあと、ほほえましく思っています。

「どうしたの?」

「うん……」

 見ると、国語の書きとりの練習です。

 前に国語の勉強で、こんな問題がありました。

 ある日、クマさんが道端で袋を見つけました。「なんだろう、中にいっぱい入っているなあ」と思い、クマさんはともだちのリスさんに聞きにいきました。

 という文章があり、それに対する質問として、

「クマさんはリスさんにどんなことを聞きにいったのでしょう」

 とありました。

「袋の中になにが入っているのかな」と「きょう遊びにいけるかなあ」という答えの中で、迷わず「遊びにいけるかなあ」を選んだおまえを、パパは誇らしく思いました。この2択は非常に悩ましい2択で、子どもなら、袋のことなど忘れて遊ぼうよと誘うような子どもの方が、子どもらしくていいんじゃないかとパパは思ってしまいます。

 でも学校教育では、この答えはバツなのです。小さい頃から、パパはそのことに違和感を感じていました。

おまえは、左手に持った鉛筆で、不器用に書いています。

 左利きからだからか、縦書きの文章を左から右に行替えして書いたり、点の位置が反対になったり、右利きのパパには想像もつかないようなことが起こります。

 そう言えば、ママも左利きでしたから、おまえはその血をついでいるのかもしれません。今度ママと会うときに、ママの苦労も聞いてみるといいかもしれません。

 ママと離れてもう4年になります。

 長いようであっという間の4年でしたね。

 あれは、別々に暮らすようになる、半年くらい前のことでした。

 3歳のおまえを、昼間は保育園にあずけ、パパとママは仕事をしていました。同じ宿場で、お芝居に関係あるテレビ番組をつくっていました。

 ある日、ママが「今日は仕事の関係で、直接劇場にお芝居を観にいってくる」と、会社に顔を出さない日がありました。

 帰ってきて、「芝居どうだった?」と、パパが聞くと、「あ、ええと」と要領の得ない答えをします。挙句の果てには、「ド忘れした」といいます。

 あまりにも間抜けな返事に不信感をつのらせました。

 夜、おまえとママは一緒に寝ていましたね。パパは、夫婦で一緒に使っている、家計の財布を見てみました。

 沢山のレシートの中に、今日、ママが芝居を見ているはずの時間のレシートが一枚出てきました。新宿の中華料理レストランで、二人分の食事のレシートが。

 パパはママを起こしました。

「これなんだ」

 と聞きました。

 ママの答えは、

「好きな人ができた」

 でした。

 悪夢のような日々がここから始まりました。

その日、夜が明けるまで、ずっと、これからのことを話しました。

 パパは遥花がいるのに、どうするんだと責めました。

 その人とちゃんと別れるか、離婚するかしかない、とも。

 ママは、その人とも別れたくないし、おまえとも別れたくないと平行線のままです。

 財布のレシートを見るなんて最低だとパパを責めたりもします。

 朝まで話しても解決策が見つからず、とにかく、一度別居し、パパが遥花を育てる。そして、頭を冷やしてからもう一度、話し合おうということになりました。

 そして、パパの子育て生活が始まりました。

 ある程度、時間に融通のきく、家に持ち帰ってできる仕事は持ち帰っていました。

 ただ、家事らしい家事などほとんどしてこなかったので、そこからが大変でした。

 まずなにより、食事の仕度。

 料理を作ることが一番の苦労。ありとあらゆる料理本を見て、間違いなくその分量通りに作っていきます。そこでわかったのは、たいていの料理は、本をみればできるということでした。

 いまでもパパは料理本がないと作れません。

 目分量などで料理できるお母さんたちを尊敬する日々です。

 

 料理といえば、つか先生も料理なんてほとんど作ったことはなかったんじゃないでしょうか。

 直木賞も、読売文学賞も、最後は紫綬褒章まで戴いたというのに、世に言う大家のような贅沢な食事など口にしていたわけでもない、事務所のそばの居酒屋に開店前から自分で並んで食べたり、店屋物はもちろん、「ここら辺はマックがねえんだよ」と嘆いたり、庶民感覚満載でした。

 味に関しても、うまいかまずいかの二つの評価しかなかったような気がします。

 以前にエッセイで、「味などというもの」といって、作ってくれる人が誠意を持って作ってくれれば、味などというものは関係ない、うまいといって食ってやるべきだと書いていました。

 料理を味わうのではなく、相手の心を味わうものであるのだからとも。

 これは料理をひとつの例にたとえているけれども、つかさんの中では、すべての行動において、その思いがあったのだろうと思います。それは芝居でも。

 つかさんの芝居の出演者、そしてつかさんがほめる役者たちは決して、世に言うわかりやすく上手い役者たちばかりではありませんでした。

 むしろどこか不器用なところを残しながらも精一杯にその役に立ち向かう誠意を見せる役者たちであったと思うのです。

 だからつかさんは、なにもできないと思われていた役者でも、その誠意が見えた瞬間に、そこを精一杯伸ばそうとして、その役者に一番あう言葉を探しだし、セリフとして与えていきました。役者たちは、つかさんの、自分のことを見つけてくれようとする誠意に向き合うと、さらに誠意を持ってそれにこたえていきました。

 その誠意をつかさんは「うまい」と評し、役者の力を最大限に引き伸ばしていきました。

 まさに「美味い」といって、料理を食べていくように。

  

 稽古や公演が終わった後、役者たちと、よく焼肉を食べにいってました。焼肉さえ食べさせとけば、役者は体力が持つというかのように。

 つかさんと一緒にご飯を食べるときは、とにかくつかさんの面白おかしいお話をみんなが拝聴するという時間です。

 その日の稽古場で起こったこと、聞いてきたことなどを面白おかしく話します。

 何度も聞いたことのある話でも、つかさんが話せば、まるで落語家のように巧みに笑いを引き出していきます。

「オレの歯、見てみろよ。出っ歯なんだよ。小さい頃からコンプレックスだったんだよ。この間、歯医者いったらよお、『つかさん、これはめったに見られない出っ歯ですよ。ぜひとも歯型をとらせてください!』ってよお、歯型とられたんだよ。泣きそうになったよ。こんな歯の歯型なんかとってどうすんだよなあ」

 ニコニコと笑顔を向けながら、面白おかしく、こっちが笑うまで、話してきます。

「おかしいだろ、おかしいだろ」

「はい、面白いです」

「オレは笑えないんだよ」

 とオチまでつけて。

「まったく役者たちが漢字が読めなくてよお。この間役者が『ツナモト、ツナモト』って言ってるから、オレそんなセリフ書いたか? 相撲とりの話でもなし、と思って、書いた台本みたら『網元』だって。たまらんぞ。おかしいだろう、これ。笑えるだろう」

「はい」

「オレは笑えないよ。そんな役者にセリフ与えなくちゃいけねえんだからよお」

 ちょっとでも、自分のことなど話そうものなら、次の稽古場で、それをネタにネチネチとセリフをつけていじめます。また飲み会で出た話がつまらなければ、明日から稽古にこなくていい、あいつはしゃべるからねえ……と言っておろされることもありますから、飲み会でさえ決死の覚悟で臨まなければなりませんでした。

 つかさんは常にアンテナを張り巡らせて、面白いもの、芝居作りの参考になるものはどんな些細なことでも拾おうとしていました。食事の席も稽古場であり、そこで芝居が生まれることも多々ありました。

 根っから、芝居のことを考えることが好きなんだと思っていたのですが、要は片時も仕事のことを忘れていなかったということでしょう。

 そう、それが「つかこうへい」という仕事だったのでしょう。

 いま思うと、つかさんのまわりの人はみんな、そのつかこうへい劇場の只中で、ずっと芝居を見せられてきたのです。極上のエンターテインメントを。人に明日もがんばろうと思わせる、希望与えるエンターテインメントを。