イギリスが世界に誇る詩人&劇作家であるシェイクスピアの作品、『夏の夜の夢』A Midsummer Night's Dream。

1594年〜1596年頃の喜劇で、『ロミオとジュリエット』執筆後に完成したと考えられており、悲劇のロミジュリと表裏一体を為す作品とされている。
シェイクスピアの円熟期の代表作で、次作の『ヴェニスの商人』構想時期のものである。



この作品を初めて読んだのは中1の頃だった。

中坊にとって、シェイクスピアはあまり面白くない。それでも悲劇ならばまだマシだが、喜劇はというと正直なところ、う〜んという感じなのだ。
しかしながら、演るのを観るのと脚本を読む違いの大きさを知るには格好の題材には違いない。

お約束ごとの展開、大仰な台詞回しによる独特の世界観…。
中坊なりに得た結論は、シェイクスピア劇は歌舞伎などの伝統芸能と同じく、そこに飛び込み、浸った者勝ちであるということだったろうか…。

(ーー)   
でもさ、歯の浮くような台詞の数々には、やっぱりゾワゾワくるんだよなww

シェイクスピア劇…
な〜んか落ち着かない気分に陥るけれど、無視し得ぬ、そんな存在なのである。



ま、シェイクスピアの好き嫌いはさておき、くそ暑い上に色々あって、腐りかけたようなの〜みそで思いついたのが「真夏の夜の夢」というワードだった。

坪内逍遥以来定着したというこのワード…
実は「真夏の夜」に非ずというのは昔かほら言われており、「夏の夜」が正しい。しかし、桃豹的には、幼い頃より耳慣れた「真夏の夜の夜」のほうがスキ🩷である。

 Midsummer は「夏至」「真夏」を意味し、Midsummer Night はMidsummer Day(聖ヨハネ祭)の6月24日の前夜を指す。
冬至祭がクリスマスに吸収されたのと同様に、夏至祭は聖ヨハネ祭になり、Midsummer Nightはワルプルギスの夜とも言われた6月23日の夜。
妖精や魔女が闊歩し、森で男女が乱痴気騒ぎに興じるのが許された晩である。


ところが…第4幕第1場のシーシアスの台詞によると、May Day(五月祭)前夜の話という設定になっているのである。

May DayとMidsummer Nightの共通点は自然の再生や復活を祝うところにあるとかなのだが、シーシアスのせいで、タイトルと劇中の設定時期が合致していない。

かくして『真夏の夜の夢』はそれより前の『夏の夜の夢』と邦訳されるようになった。


(ーー;)どっちでもえ〜わいな。




さて、この喜劇の登場人物の一人のティターニア 。妖精の女王なのだが、夫のオーベロンと力が拮抗しているためか、諍いばかりしている。
最初に目に入った者に恋してしまう惚れ薬を、夫の配下の妖精パックに瞼に塗られたティターニアは、ロバの頭を被ったアテネの織工ニック・ボトムにメロメロになってしまう。
そのあまりに滑稽な様に、夫も流石に憐憫を覚え、パックの魔法も解かれてめでたしめでたしになる。

諍いや誤解が人の死を招き、周囲に祝福されることなく死を迎えるしかなかった恋人たちは、この喜劇にはいない。
ロミジュリの悲劇は、『夏の夜の夢』では形は違えどもそれぞれ解決し、大団円の結末を迎えるのである。



If we shadows have offended,
Think but this and all is mended,
That you have but slumberd here
While these visions did appear.



我ら影法師 お気に召さずば

ご気分直しに こうお考えあれ

こちらでの まどろみの間に

夢まぼろしが 現れたのだと

          (桃豹訳)



儚い現世(うつしよ)。
恋も夢も様々な思いも、人生の悲喜劇こもごもも、
所詮は夢のまた夢。

パックの台詞がそれらを見事に締めくくっている。








桃豹近況

進路&広報で大変だったのに加え、酷暑続きで、身体にムチ打って日々やり過ごして来たが、先月末からの家人の入院により、またまた超繁忙である。
夏休みになっているからまだしも、就業時間後の病院通いはキツい。
更にこの病院ときたら、お山のてっぺんにあり、急坂登坂せねばならぬ。
最寄り駅からタクシーで1,000円ほどの処にあるのだが、駅前にタクシー乗り場はなく、道を流してもいない。待てども現れぬタクシー待つより歩くほうが早いので、往復歩くこともある。

(ーー;)だから、かったるいんだ…。

最近の桃豹を支えているのは、紀州南高梅&納豆各種である。

因みに桃豹、くされ豆、大嫌いやねん…。
(;^ω^)。