初恋の人を闇の帝王トート閣下に奪われた桃豹殿下は、傷心のままふわりと時空を超え、只今は1896年時点においで遊ばす。

妄想世界に生きる殿下は、時空を行き来できるばかりか贅沢三昧なために、現在の5つ星ホテルであるインターコンチネンタル・パリ・ルグランの前身グランド・ホテル5階のロイヤルスィートルームに居続けておられる。





桃豹殿下



このホテルは1862年6月30日にオープンし、かの『レ・ミゼラブル』のヴィクトル・ユーゴー(1802〜1885)、『ナナ』のエミール・ゾラ(1840〜2902)『女の一生』のモーパッサン(1850〜1893)、『ドリアン・グレイの肖像』のオスカー・ワイルド(1854〜1900)等の文人や女優サラ・ベルナール等のサロン的役割を果たした。

第二帝政期にナポレオン三世(1808〜1873 1852年即位)がジョルジュ・オスマンセーヌ県知事に命じて行ったパリ改造計画の一環で建築され、真向かいにガルニエ宮(パリ・オペラ座)の正面玄関がある。
ガルニエ宮の着工は1862年7月21日、竣工は戦争や政権交替等のトラブルにより、建築主ナポレオン三世の死から2年後の1875年1月15日である。



現在のシャガール作の前のオペラ座天井絵




出生の怪しさと共にクーデターにより帝位についた皇帝と各国から馬鹿にされたナポレオン三世は、列強を見返すべく、パリの徹底改造を驚くほど短期に成し遂げた。
更に皇帝は1858年8月19日に品川に上陸し、10月9日には日仏修好通商条約を時の将軍徳川慶喜と結んでいる。

これにより翌1859年8月15日から函館、神奈川、長崎、新潟、兵庫港が開港され、日本の良質な絹に目をつけた皇帝は日本産生糸最上の買上げ国となり、僅か5年でリヨンの紡績産業を驚異的に発展させて経済基盤を整えることに成功する。

民主制を謳う第二帝政は植民地拡大、外交、経済、そして世界の中心を担うべくパリの改造を行い、ガルニエ宮やグランド・ホテルが建設されたという訳だ。

1867年4月1日〜10月31日に開催されたパリ万博には42ヶ国が参加し、会期中1500万人が来場した。
各国の賓客は黄金時代の真っ只中にあるフランス共和国の絢爛さに圧倒され、そのエスプリに心酔した。…僅か3年後に普仏戦争の大敗により第二帝政が終焉を迎えようとは、その時は一体誰が予想できただろう。


桃豹殿下は特別に部屋に運ばせたアフタヌーンティーセットを前に、観劇前の腹拵えの最中である。
イギリス式の遅い時間のプレディナーは、半世紀ほど前からベットフォード公爵夫人が始めた女性たちのならいではあるが、何構うものか。

アフタヌーンティーには本来ないが、これも特別注文したスフレをギャルソンがテーブルに供し、コーヒーリキュールを回しがけする。香り立つココット皿を前にした殿下は、ココットのもう一つの意味である娼婦に思いを馳せる。

忘れ得ぬそのひとの名はマリー・デュプレッシーという。
営業日には白椿、それ以外は紅椿を胸に飾った伝説のドゥミ・モンディーヌは、「椿姫」という通り名のほうが有名だ。



椿姫ならぬ桃姫



マリー・デュプレッシー(1824〜1847)の死後、彼女の真の恋人を気取ったデュマ・フィスは『椿の貴婦人』書いて大ヒットを飛ばした。舞台で一層人気を博し、1853年のヴェルディのオペラにより、『椿姫』の名は不動のものとなったのである。

娼婦でありながら天使の清らかさをもつマルグリット・ゴーチェはマリー・デュプレッシーと、恋人アルマン・デュバールは狡猾なるデュマ・フィスと一元化し、彼らの愛は永遠不滅のものとなる。

数々の名作をものした父大デュマの金で遊び歩いていた、とるに足らぬちっぽけな男は、それでも多少の文才を有していたために、一人の女の死により世に出ることを許された。『椿の貴婦人』を書かなければ、デュマ・フィスの名はとっくに忘れられている。

『椿姫』は都合よく事実を捻じ曲げられ、美化された夢物語である。しかし女の一生が儚く哀れであればある程、大衆は己がなし得なかった究極の愛の姿に共感し、感動が生まれるのである。一瞬の光芒が永遠となるからくりは概ねそんなものなのだ。

オペラ座の大階段に立つマリー・デュプレッシーをひと目見て恋に落ちただけの自分だとて、彼女の愛を勝ち得た者ではない。その他大勢の一員に過ぎぬ。すれ違っただけの女を忘れられずに長らく感傷に浸るなど、一人前の男のやることではないな…。

言葉すら交わせずに喪ってしまった初恋のひとは、その後幾つの季節が巡り時が流れても色褪せることはない。凝縮されたあの一瞬はそのまま脳裏に焼きつき、彼女の姿を思い起こす度に、尚一層あざらかに蘇る。色褪せることのない天上の恋、麗しいその姿、消え去ることはないけれど永遠に我が腕に抱けぬ彼女の魂…。時追う毎にいや増すせつなさは、恋に恋する己への憐憫も多分に含まれている。

カップをソーサーに戻しながら、桃豹殿下は自嘲的な笑みを浮かべて、五階のロイヤルスィートの窓外をご覧になる。いつの間にか日はとっぷり暮れていた。瓦斯灯に浮かび上がるオペラ座のシルエットは暗くのしかかり、何やら不吉な雰囲気を纏っている。

爽やかな5月の夕べだというのに、薄気味悪く感じるのは、最近ハマっているゴシック・ロマンスの読み過ぎによるものだろうか。
昨夜から読み始めたのはオスカー・ワイルド卿の『ドリアン・グレイの肖像』だが、これから出かけようとしているオペラ座の演目よりも、そちらの展開のほうが気になる。

グランド・ホテル滞在時から、支配人に言いつけて演しものがある間はオペラ座の正面バルコニー席を押さえてあり、気が向いた時だけ出かけているのだが、今夜に限って通りを渡って行くだけなのにあまり気乗りしない。

…どうしようかな。
身支度して白手袋持ち、鏡の前に立つ。
美青年ドリアン・グレイになったような気分で、暫し鏡の中にいる自分の分身に見入っていると、わざわざ人ごみに行き幕間につまらぬ社交した挙句、遅い時間に戻って食事するのが面倒になって来た。

ぽんと手袋を放り投げて上着を脱ぎ、整えられたベッドに枕を重ねて寄りかかる。読みさしの『ドリアン・グレイの肖像』を開き、続きを読み始める。




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心地よい眠りはドンという鈍い揺れにより妨げられた。

地震か!?

殿下は本を読みながらお休みになってしまったらしい。
目を擦りながらベッドを降りて窓から外の通りを見下ろされると、オペラ座の正面玄関から多勢人々が先を争って外に飛び出して来るのが見えた。被り物なくして髪ふり乱しているご婦人方もいれば、破れた肩口から白いシャツ覗かせた男性たちもいる。ガルニエ宮前広場は一気に阿鼻叫喚の地獄と化した。

目を凝らすと正面入口や窓から煙が見える。

火事だ!


急いで長靴(ちょうか)を履かれようとした殿下は背後にひやりとした気配を感じ、総毛立った。そろそろと振り返ると、招かれざる客の長い髪が、オペラ座の灯りを受けて煌めくのが目に入った。
闇の帝王、あるいは死神の名をもつトート閣下は、少しクラシックな細身のテールコートに今流行りの高いトップハット姿で立っていた。
殿下と目が合うと帽子の鍔に軽く手をやり、優雅に会釈した。




病みの帝王桃豹閣下ww




「久しぶりだな。」

「…何の用だ!?」

トート閣下はちらりと窓外を見やり、白手袋の長い指を泳がす。

「今夜は一人ね、ご婦人をお迎えに上がったのさ。」

桃豹殿下の顔色がすっと青ざめる。先程からのオペラ座の騒ぎに関係しているに違いない。

「…何があったの?」

「シャンデリアがね、客席に落ちたんだ。」

4階と5階の見物人からは舞台がよく見えないと不評だった大シャンデリアの重さは、6tとも7tとも言われている。
鎖で巻上げる巨大な瓦斯灯のシャンデリアは、オペラ座の絢爛さの象徴と言っても過言ではない。部屋を走り出ようとする殿下の袖を、死神は素早く捉えた。

「行ってもできることはない。」

「…でも、火が回る前に皆を助けなくては!」

「大丈夫。オペラ座は燃えやしない。」

狼狽して目を泳がせる殿下を、死神はいつものようにシニカルな眼差しで見下ろす。

「…全く!未来の皇帝陛下はお優しくていらっしゃる。取るに足らぬ人間の生命など、どうでもよいではないか。」

桃豹殿下は死神の手を振りほどくと、きっと死神を見据えて自分でも驚くほど声を荒げて叫んだ。

「取るに足らぬ人間など、いやしない!」

 

トート閣下はお手上げだねというように肩を竦めた。
そしてダンスのステップ踏むように、テールコートの裏地の鮮やかなロイヤルブルーを翻してくるりと3/4回転し、居間のほうに向かった。

「花が欲しくてね、そのためにここに立ち寄ったんだ。」

「勝手に持っていけばいい。」

桃豹殿下は素っ気なく答えて、窓枠に寄りかかって通りを見下ろした。確かに自分が行ったとて何もできやしない。右往左往するのがせいぜいだ。

通りや広場のあちこちに、怪我人や逃げ出して来た者たちが蹲っている。クロークに預けた外套や荷物どころではないから、ショールもない薄物のドレス姿の女たちもいる。この時期とはいえ、屋外は冷えるだろう。

いやいや、取り敢えずあそこにいる者たちは助かったのだ。今夜連れて行かれるのは、誰なのだろう。
つと窓辺を離れると、居間の花活けを覗き込んでいる死神に声をかける。



「僕が知ってるひと?」

死神は大輪の白薔薇を一本抜き取ろうとしながら、振り向いた。

「…何が?」

「…あなたが連れて行くひとのことだよ。」

「ああ、彼女ね。そら、いつも入口の処に小柄な管理人がいたろ。彼女さ。」

桃豹殿下はすぐにきれいにまとめた栗色の髪に黒っぽいボンネットを被り、いつも目立たない成りをしていたオペラ座の管理人を思い出した。


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一度喧しい侯爵夫人と令嬢たちに取り囲まれてしまい、這う這うの態で逃れて、ボックス席の廊下で迷ってしまったことがある。
自分のボックス席は皆に知られているから反対翼に行ったのだが、何だか鏡の世界に迷い込んだような錯覚に陥ってしまったのだ。
廊下を彷徨いていたら彼女がすぐにそれと察して、空いているビロードのカーテンの奥まったボックスに案内してくれ、一幕匿ってくれたのだ。

あの日の演目のことなど全く覚えてはない。何故ならオペラ通の彼女との話のほうが面白くて、舞台になど目もくれなかったからだ。
彼女は別れ際に『ラ・トラヴィアータ』のヒロインが一幕目で歌う「E strano!..Ah,fors'e lui..Sempre libera(ああ、そはかの人か)」が一番好きな歌だと言って、お気に入りのフレーズを小声で歌ってくれた。

Sentìa che amore è palpito dell'universo intero,
Misterioso, altero,croce e delizia al cor!

私は感じてた 
愛は宇宙のときめき
神秘と誇りに満ちて
心に苦しみと歓喜をもたらすの! ※注

彼女のイタリア語は実にのびやかで美しい響きだった。


※注 イタリア語専攻ではない桃豹殿下訳ww


「素晴らしい!貴女は夜な夜な夢の世界に遊び、歓びに浸ることができるのですね…。」

「左様でございますの、殿下。」

コマねずみみたいに日々ボックスを行き来し、大好きなオペラやバレエの世界に浸って生きる彼女は、実に幸せそうににっこり微笑んだ。
そんな彼女を僕は心底羨ましく思った。
後日、博識なるオペラ座の管理人に敬意を払い、僕は椿姫のヴィオレッタの胸を飾る白椿を贈ったんだっけ。




氏名不詳のオペラ座管理人 
勝手に冴えない中年女性を想定
ルルーの『オペラ座の怪人』には管理人が死亡したと書かれているが、創作なのか事実なのかわからない。フランスの古いwebページでも見れば資料が見つかるかもしれないが…面倒くさ〜(ーー)
…てかそこまでお仏蘭西語に堪能ではありませんの




殿下は呼び鈴を鳴らし、跳ぶようにやって来たギャルソンに、いつも夜食と一緒に届けさせている白椿にピンを付けて急いで持ってくるように言いつけた。チップをはずむ殿下のご希望が叶えられぬことなどない。

すぐに届けられた白椿は、部屋の花活けの薔薇を凌駕するほど大輪で、華やかでありながら清楚な佇まいだった。
殿下は死神に花を託した。


「」あのひとはヴィオレッタの『ああ、そはかの人か』が大好きだったんだ。最後のダンスを踊る前に彼女の胸に付けてやって。」


手に余るほどの見事な白椿を渡されたトート閣下は、一瞬驚いた風だったが、すぐにいつもの調子で言った。

「…全く!殿下は感傷的でいらっしゃる。」

シニカルな言葉とは裏腹に、桃豹殿下への眼差しはひどく優し気だった。
氷の息を吐く唇に軽く指をあて、殿下に投げキッスを寄越すと夜の闇に消えた。




死神桃豹版トート閣下




1896年5月20日のシャンデリア落下事故により、4番ボックス13番席にいたオペラ座管理人の女性の死が報じられたのは、翌日の新聞であった。原因は鎖で巻き上げるシャンデリアの錘が壊れたとも、火災によるとも伝えられているが、詳らかではない。

1909年にはガストン・ルルーがこの事故にヒントを得て、1909年9月23日から1910年1月8日まで日刊紙『ル・ゴロワ』に連載し、1910年4月にピエール・ラフィットが出版した作品こそが、かの有名な『Le Fantôme de l'Opéraオペラ座の怪人』である。




次回予告&どうでもいい桃豹近況


まだまだオペラ座から離れられぬ桃豹殿下、お次は何処に現れるのやら…。

ビンボーハンボー教師桃豹(これがホントの姿)は、来週の町田七福神巡り計画&雑学王決定戦問題作り&3月初っ端の新江ノ島水族館見学時程作りと家事や確定申告手伝いやらで大忙し(TдT)。

おまけにYOKOHAMA桃豹村には花粉の嵐で、苦しくて死にそう〜!
皆さまに於かれましてはよき週末をお過ごしくださいまし。



訪問者各位

読み直したらまた一部記事が飛んでおりました。申し訳ございません。
2月19日22時に加筆修正致しました。

史実と虚構ないまぜな上に、原作本やミュージカルや映画のごった煮ゆえ鵜呑みにせんように願います。

妄想オペラ座支配人 ぱんざぶろー