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 今は昔のお話ですが、拙著では一時期社会問題になった学級崩壊と校内暴力が発生したメカニズムについて検証しています。

 

1979年(昭和54年)はボクが大学3年生で、一部のヤンチャな生徒による教師相手の暴力行為など中学、高校はおろか、小学校の学級崩壊までが表面化して社会問題となりました。教育学者を自称するバカな有識者連中の会議では様々な意見が交わされました。概ね育った家庭環境に問題ありとして校内暴力の原因に挙げるなど、無責任極まりない全く的を射たモノは無いけれど、自分の思春期を思い出せば何かしらヒントが有るハズです。

 

 先の大戦後、四半世紀前後に義務教育を終えたボクらとそれ以降に義務教育を受けた子供たち、そこには大きな違いが有ります。例えば、昭和40年代半ば頃の教師と教え子の関係。

昭和40年(1965年)度に小学校に入学したボクらの担任は年齢から言って兵隊さん上がりの先生が沢山いました。つまり、20年前までお国の為に命を賭けて兵役に従事した経験の持ち主です。ボクら生徒にとって絶対的存在でした。そんな先生が仰るコトは、理解できるコト、納得できるコトは勿論、理解できないコト、納得できないコトまで、「ハイ、先生」、「分かりました先生」とか言って先生を奉っていたのです。即ち、昭和40年代前半に小学生だった東京タワーと同い年のボクらまでは、先生を含めて大人に対してとても素直な子供でした。それはきっと、全共闘とか言ってワケの分からんコトを主張して暴力に訴えた大学生のお兄さん、お姉さんたちを反面教師として育った環境が大きく影響しているのだと思います。

 

 そして、問題の昭和50年代半ばと言えば、ボクらの直上の先輩方が憧れの教師像を目指して次々に教壇デビューした頃です。

そんな新米教師が職員会議での決定事項を理解できるコト、納得できるコトは勿論、理解できないコト、納得できないコトまで相変わらずその場で質問するコトもせずに、唯単に、「職員会議で決まったコトだから、イイな」とか言って生徒に丸投げしたコトこそ校内暴力勃発の原因が有るとか無いとか(諸説あります)。

 昭和55年当時、中学3年生と言えば昭和40年生まれ。その子の親の中には学生運動に命を燃やした両親もいるでしょう。つまり、自己主張の強い親御さんから生まれた子供は自分に対して素直に育てられたと言えます。

 即ち、言われた内容について理解できないコト、納得できないコトが有れば、理解できるまで、納得できるまでトコトン質問する子供だったというコト。

 一方、ボクらは理解できないコト、納得できないコトについては、自分たちでさえ理解できないコト、納得できないコトを言ってる先生自ら理解できてるハズが無いとの思いからヘタに質問してボクら生徒の前で先生に恥じをかかせるワケにはいかないという気持ちが常に働いていたのだと思います(諸説あります)。

 

 学生運動に命を燃やしたお兄さん、お姉さんたちの二世が中学校に進学すると先生方は当然のように質問攻めに遭いました。

自分に素直に育った子供たちにとってベテラン教師も新米教師も一切関係有りません。そうなると質問された経験の無いベテラン教師も質問した経験の無い新米教師も教壇の上で固まるばかりです。生徒たちだって教師を困らせるつもりなど毛頭無くて、寧ろ先生に信頼を寄せているからこそ質問したにも拘わらず、その信頼すべき先生に目の前でシドロモドロになられては、生徒が不安に襲われるのも当然のコト。

 つまり、反抗期も手伝って爆発した心の不安が巻き起したモノが校内暴力であり、学級崩壊だったと言え無くも有りません(諸説あります)。

 実は、息子や娘による場合が最も多いと言われる老人虐待にも共通点が有って、生まれた時から頼りにしていた親が認知症を患ってワケが分からない状態になってしまったコトで不安になった実の息子や娘が親に手を挙げるというメカニズムです(諸説あります)。