おはようございます
現代アーティストの 児玉加奈子です
「困っている人がいたら、たすける」
これがわたしたちの、普通だとおもいます
私の中には、特に家族に対してのこれが大変に強くて
特に顕著なのが子供に対してなのですが
(子供も迷惑かも💦)
しかし、昔読んだピダハンの本にとあるエピソードがのっていて驚きました
「助けたい」は世界共通かと思ったら、そうでもない?…と
そのエピソードとは、自分の娘が臨月で産気づいて、苦しんでいる
ピダハンの人は川で陣痛を逃すのか、川で娘を1人にして遠くから声をきいている
次第に苦しむ声から悲鳴、たすけて…となり…しかし、親はいかない
「あの子の試練だからと」
そして、翌日川で母子ともに亡くなっていた
私からしたら、ありえないし、驚きなんだけど、ピダハンの文化の中ではそれが当たり前、運命。
なのかなと
そう考えると、私の強迫観念にも似た、「助けなきゃ」もきっと後天的なものかもしれない
(小さい頃に母を助けられなかった場面があり、その影響が強いのだけど)
それを疑う余地もないほどに、このままで生きてきたから、理解はできてもしっくりはこない
ここでは、助けたい、も、助けなくていい、も、そこの文化の中で作られたものであるかもしれない
自分の中に根付いている、「価値観」を一掃させるような文化に触れると、とても興奮する
世界は広いな、と感じるし、時代や、その人の中の信じている事なんかを知るのはとても楽しい
(その人の中のルールを「見る」カウンセリングも楽しかったな)
自分の凝り固まった「価値観」から、ふっと降りてみる
それは、立ち止まったり見つめたり、意識しないとなかなかできない事
今の大人は忙しくて、なかなかその時間がないけどね
そうすると、強制的にタイミングがきたりもするけど
メンタルの不調とか
たまには、アイデンティティにくっついたルールを疑ってみる
ルールを破り、飛び出してみる
ちょっとこのまともな世界(文化)に疲れたら、きっとそのタイミングなんだな、と